『ボーはおそれている』に隠された意図とは?鬼才アリ・アスターの頭のなかを探る
アリ・アスターは世界に絶望している?ボーを通じて観客に何を問いかけたか
アスターの長編映画3本は、広くとらえればすべて「旅」を描いた作品であり、主人公が新しい世界を発見していく物語だ。『ヘレディタリー/継承』では家族に隠されていた信仰の世界が開かれ、母と息子は精神的苦難の旅路をゆく。『ミッドサマー』では旅行で北欧のホルガ村を尋ねた女性が、未知の文化と救済を発見する。『ボーはおそれている』も、ボーが自分の人生や、自らを取り巻く世界を発見していく物語だ。 しかし過去2作とは異なり、ボーは自分の発見した世界に対して完全なる敗北を喫する。『ヘレディタリー/継承』と『ミッドサマー』は、どちらも最後には主人公が新しい王になる物語だったが、ボーは世界の王たる母親をとうとう倒すことができず、王によって処刑を言い渡されるのだ。 すなわち、どれだけ狂躁的で過剰だとしても、この映画は一種の「地獄めぐり」なのである。現代社会の暴力と狂気を誇張したような都市の地獄、一見理想的な家族関係に充満しているトラウマと不和の地獄、自分には別の人生もありえたのではないかという夢(演劇)の地獄、実家という正真正銘の地獄、そして最後に待つ審判。どこかにある未知の世界を夢みて、ボートに乗り込み夜空の下を漕ぎ出していくことは許されない。家族にも疑似家族にも、不在の父親にも、自らの男性性にも、女性や性欲にも希望は残されていないのだ。 もしかすると、アリ・アスターは「この世界は最低だ」と思い、とっくに絶望しているのかもしれない。もっとも現実世界に近い、第一部でボーが暮らしている都市の喧騒も、そうして見直せば単なる空騒ぎのように見えはしないだろうか。 ラストシーンでは、水上の法廷に集まった満員の観衆のまえで、船に乗せられたボーがモナから断罪される。ボーの乗るボートが転覆すると、観客たちは少しずつ立ち上がって会場をあとにする。画面が切り替わらないままエンドクレジットが流れはじめたとき、映画館に足を運んだ観客たちも、一人またひとりと劇場を去っていっただろう(ソフトや配信でこの映画を観たならば、その途中で再生を止めたり、手元のスマートフォンを手に取ったりしたかもしれない)。 私たちもまた、ボーの人生と審判を見守る観客の一人だ。旅劇団「森の孤児たち」の一員が「観客と演者の境を曖昧にしたい」と口にするのは、映画の最後でスクリーン上の観客と劇場の観客を同じ存在として扱うことの予告だったのである。 ボーの人生と同じく、観客にとっても映画はあっさりと終わりを迎える。そのことを観客は受け入れ、ひとまずの答えを出して家に(現実に)帰ってしまうだろう。しかし、それで本当によいのだろうか。その後、観客はこの映画のことをどれくらい思い返すのだろう? アスターは『ボーをおそれている』について、「あらゆる意味で実験的」な作品であり、「この手の映画は今後二度とつくらない」と言い切った。そして同時に、この映画についてもっと考えてほしいと要求するのだ。そこに感じ取れるのは、深い絶望と、それでも諦めきれない意志――それらはやはり、劇中のボーに通じているものである。
テキスト by 稲垣貴俊 / 編集 by 生駒奨、CINRA編集部