『ボーはおそれている』に隠された意図とは?鬼才アリ・アスターの頭のなかを探る
冒頭から狂騒的。ジャンル不詳の不条理劇に散りばめられた仕掛けと狙い
心配性で、いつも不安に怯えている中年男性・ボー(ホアキン・フェニックス)が、大企業を経営する母親が突如死んだと聞かされ、実家を目指して旅をする……。『ボーはおそれている』は、一見シンプルな筋立てながら、内実は複雑怪奇な全5部構成の物語。ストーリーが新たな方向に転がるたび、映画としてのトーンも変化する仕掛けだ。 『ヘレディタリー/継承』と『ミッドサマー』は「ホラー」といえる映画だったが、本作はジャンル不詳。「不条理劇」と形容するのが正しく思えるほど、アスターは典型的なストーリーテリングのセオリーをことごとく踏み外していく。観客が思ったとおりの筋書きには決してならず、予想の斜めうえをゆく展開が続き、そのうえひたすら悪いことが起こり続ける。現在と過去、事実と妄想、現実と虚構が入り乱れ、やがて映画としての「語り」自体がぐらつくにつれて、ボーだけでなく観客さえも何を信用してよいのかわからなくなるのだ。 アスター自身が「ダークコメディ」だと言うように、本作はやたらと狂躁的だ。『ミッドサマー』ではクライマックスが近づくにつれて映画そのものが異様なテンションになっていったが、『ボーはおそれている』は序盤から不可思議である。全裸で人を刺す殺人鬼、路上で人に馬乗りになる暴行犯、アパートに押し入ろうとしてくるタトゥーの男。毒グモ、繰り返される「音量を下げてくれ」のメモ、なぜか水が出ない水道。その先に待つのが、母親の死という悲しい知らせだ。 治安の荒廃したエリアに暮らすボーがアパートを飛び出すまでを描いた第一部から、ボーの抱える不安を戯画化したような悲喜劇は幕を開ける。第二部は、裕福な夫婦のグレイス&ロジャーに命を助けられたボーが郊外の邸宅で過ごす時間。第三部は旅劇団「森の孤児たち」による演劇のパート。第四部は実家での出来事、そして第五部はラストの審判だ。時折、ボーの少年時代を描く回想シーンが挿入されて、彼と母親・モナの異様な関係が浮かび上がってくる。 「狂躁的」とは作品のテンションだけでなく、全編のすさまじい情報量にも言えること。ただ実家を目指すだけの物語に、アスターは、美術や小道具などの細部をつくり込むことであらゆるイメージを埋め込んだのである。 たとえば映画の序盤、ボーがセラピーを終えて家に帰る道中では、母親に「言うことを聞きなさい!」と怒られた少年がボートのオモチャをひっくり返す。これは後述するラストシーンの伏線だ。映画冒頭に映し出されるA24などのロゴには、モナが経営する架空の企業・MW社のものも含まれているが、これは初見の鑑賞では絶対に気づけないもの。随所に用意された、さまざまなイメージの「意味」が重なり合ってゆくことで、表面的なレベルでは見えてこないレイヤーがあらわになる構造だ。 こうした過剰なまでのハイテンションと情報量は、観客の目から何を隠そうとしているのか――。その根底に横たわっているのは、ストーリーと同じくシンプルな、ボーが人知れず抱える「心配」と「空虚」、そのナイーブさである。タイトルの通り、「ボーはおそれている」のだ。しかし、いったい何を?