『ボーはおそれている』に隠された意図とは?鬼才アリ・アスターの頭のなかを探る
「巨大な男性器のモンスター」は何を暗示する?ボーの「おそれ」の根底にある欲求と抑圧
アスターと「家族」の表現にはいくつもの謎がある。しかしアスターは、『ボーはおそれている』で、ひとつだけ家族に関する新たな表現に取り組んだ。それは、強烈な「父」≒男性の存在が特殊なかたちで現れること。そこに「家族」をめぐる謎のヒントが隠されているのではないか──そのように考えてみたい。 『ヘレディタリー/継承』の父親は心優しいが何もできずに死亡し、『ミッドサマー』で父親が具体的に描写されることはなかった。ところが『ボーはおそれている』では、ボーが生まれる前に死んだという「不在の父」の存在が、母と同じくボーを始終悩ませる。ボーの父親はモナとの性交中、モナがボーを身ごもった瞬間に命を落とした。祖父もまた同じ運命をたどったため、ボーは自分にも同じ性質が宿っているのではないかと「おそれている」のだ。 その恐怖がはっきりと突きつけられるのは、先述した「屋根裏にいる恐ろしいもの」の正体である。自分よりも勇敢な(=男らしい)もう一人のボーとともにいたのは、巨大な男性器のモンスターなのだ。アスターが日本での本作プロモーションイベントで「あれは男根野郎だ」と冗談めかしながら話したように、これは不在の(見えない存在としての)父親や、あるいは母によって抑圧された男性性のメタファーとして解釈できる。 同じく日本でのイベントで、アスターは父性≒男性性の重要なイメージをもうひとつ示唆した。「少年時代のボーが船に乗っているシーンでは、威圧的で恐ろしいバスローブの男がずっと後ろにいる。なぜ彼はこちらを見ているのか、なぜボーの記憶のなかにいるのかを考えてほしい」と。彼は海外メディアのインタビューでも、船のシーンに「まったく別の物語を伝えるもの」が映っていると述べていた。 少年時代のボーは、母と乗り込んだ船のなかで、最愛の女性・エレインと出会い、初めてのキスをする。自らの恋と性愛がまさに目覚めようとするとき、その後ろではバスローブ姿の男がじっとボーを見ているのだ。それは不在の父のイメージかもしれないし、その後の彼が「おそれ」つづける性的欲求が人間の姿を借りて現れたものかもしれない。あるいはバスローブの男性そのものが恐怖の対象だとしたら、もしかするとボーには別のトラウマが、まったく別の物語があるのかもしれない(そこまで想像を広げれば、たしかに「まったく別の物語」が見えてくるだろう)。 アスターは過去作から一貫して、父性と男性性、そして男の性的欲求が直線で結ばれ、その結果として取り返しのつかない悲劇が起こる物語を描いてきた。『ボーはおそれている』では、エレインと再会したボーが念願のセックスに臨むが、男性性と同じく抑圧されてきた性欲がいよいよ成就したとたん、エレインは自分のうえで息絶えてしまう。 そもそも『ヘレディタリー/継承』でも、妹が事故死した原因は、兄がパーティーに妹を連れていったにもかかわらず、気になる女の子と話すために妹を遠ざけておいたことだった。短編映画『The Strange Thing About the Johnsons(原題)』(2011年)では、息子が父親を性的に虐待したことで家族がメチャクチャになり、『The Turtle's Head(原題)』(2014年)では女好きな探偵の性器がどんどん縮んでいく。 『ミッドサマー』の大学院生は最初から下心たっぷりで、主人公の恋人・クリスチャンは村の女性とセックス(という儀式)に及んだゆえに断罪される。本作のボーも同じように、母のベッドでエレインとセックスしたことが決め手となって決定的な裁きを受けるのだ。アリ・アスターの映画では、男の性欲は必ず罰される。ボーは最後にすべてを諦めた表情を浮かべ、人生の旅はあっけなく終わるのである。