300年余り続く「岸和田だんじり祭」 空襲で焼失しても受け継いだ、市民の祭りにかける思い
だんじりへの熱い思いを映して
太平洋戦争末期の昭和20年(1945)7月10日、岸和田市街に空襲があり、6名の死者と約130戸の家屋焼失という被害が出た。この際、中之濱(なかのはま)町のだんじりも焼失。空襲を心配して浜辺の納屋に避難させていたことが裏目に出て、風に流された焼夷弾によって被災したのである。 戦後まもなくから、だんじり祭の再開の動きが始まる。昭和22年(1947)、23年と中之濱町の若者たちは、隣町の好意によってそのだんじり曳行に参加させてもらうが、23年の祭りでだんじりを転倒させてしまい、以降の参加が難しくなる。 そして、昭和24年(1948)、祭りを見ることしかできなかった若者たちは決意して、町会にだんじり新調の申し入れをする。これを受けた町会は、小学校講堂で町民大会を開催。議論ののちに全町民による投票を行ない、新調を決定した。 その資金は、当時の町の全175戸に公平に日掛け10円、2年間にわたって積み立てることとした。いまだ戦後の食べ物も十分ではなかった当時、10円というと現在の100円ほどの価値。それを毎日、全戸で積み立てたのである。新たなだんじりは2年後の祭にはほぼできあがって曳行され、翌昭和27年(1952)に完成。現在も大切に引き継がれている。 現役のだんじり22台のうち、戦後に造られたものは14台。特に平成時代には12町のだんじりが新調された。それらもまた、町の人々をはじめとした祭りの参加者たちの多大な出資によって実現したことという。祭りとだんじりに寄せる地域の思いは今も変わらない。 そして、その思いの結晶といえるのが、だんじりに施された彫刻なのである。岸和田出身で、現在は貝塚市に工房「木彫山本」を構えるだんじりの彫物師、山本仲伸(なかのぶ)さんにお話を聞いた。 「岸和田のだんじりの彫り物は、欅を素材に仕上がりはその木目を生かし、塗装はごくわずかに抑えるところが特徴です。一般的なだんじりの場合、金具など高価な装飾を多用したものがありますが、岸和田のだんじり自体、そうした装飾はあまり使われていません。おそらくは当初、質素倹約を図る必要があり、そうしたなかで彫り物に力が入れられて、競い合ううちに、むしろ簡素な木彫りで表現することが値打ちだと捉えられるようになったのでしょう」 彫り物の題材には、映画やテレビがなかった時代に人気を博した、講談の主人公や物語がよく取り上げられる。ただ、そこには時代が反映していて、幕末のころのだんじりには『三国志』などを題材にしたものが多い。上方の講談の主人公は、徳川家に対抗した大坂方の武将などが多く、幕府への配慮から取り上げにくかったのだろうという。 「それらの登場人物たちの活躍が誇張されているように、だんじり彫刻にも大げさな動きや構えが取り入れられています」 山本さんの作品は、特に迫力ある表現で定評があり、これまで岸和田以外の地域のものを含めて、数多くのだんじりを手掛けてきた。「この地域の人たちは目が肥えているので、ここにもうちょい模様を入れてほしいとか、注文が多くてなかなかたいへんです」と笑う。
山本さんのもとには、だんじり彫刻を踏まえた置物などの調度品の依頼も多い。それへの応対では、耐久性があって加工しやすい檜(ひのき)を素材として薦めることもあるという。しかし、「そこは欅で」と指定されることがほとんど。だんじりへの愛着は一人ひとりの心にも深く根付いているのである。
兼田由紀夫(フリー編集者・ライター)