300年余り続く「岸和田だんじり祭」 空襲で焼失しても受け継いだ、市民の祭りにかける思い
あのまちでしか出会えない、あの逸品。そこには、知られざる物語があるはず! 「歴史・文化の宝庫」である関西で、日本の歴史と文化を体感できるルート「歴史街道」をめぐり、その魅力を探求するシリーズ「歴史街道まちめぐり わがまち逸品」。 【写真】交差点を「やりまわし」で駆け抜けるだんじり〔写真提供:岸和田市〕 大阪府岸和田市といえば、全国的に知られるのが「だんじり祭」。岸和田城旧城下の市街地をだんじりが疾走し、そのまま交差点を豪快に転回する見どころ「やりまわし」は、季節のニュースとしてテレビでもよく紹介される。ただ、映像では見えにくいかもしれないが、そのだんじりには、前後左右の全面に精緻な木彫が施されている。今回はその「だんじり彫刻」に、地元の人々の心意気を探った。 【兼田由紀夫(フリー編集者・ライター)】 昭和31年(1956)、兵庫県尼崎市生まれ。大阪市在住。歴史街道推進協議会の一般会員組織「歴史街道倶楽部」の季刊会報誌『歴史の旅人』に、編集者・ライターとして平成9年(1997)より携わる。著書に『歴史街道ウォーキング1』『同2』(ともにウェッジ刊)。 【(編者)歴史街道推進協議会】 「歴史を楽しむルート」として、日本の文化と歴史を体験し実感する旅筋「歴史街道」をつくり、内外に発信していくための団体として1991年に発足。
いまも生きる歴史文化としての祭り
大阪府南部は旧和泉国にあたり、現在も泉州の名で呼ばれる。この地域の要衝として、中世から城が置かれてきたのが、岸和田である。江戸時代に入ってからも、大坂の南の守りとして譜代大名が治める城下町として栄えた。例年9月、その旧城下町を中心にして執り行なわれる岸和田だんじり祭は、始まりから300年余と伝え、地域の文化として地元の暮らしに深く根付いている。
城主が認めた、城下の町衆による祭礼を継承
岸和田だんじり祭の起源は一般的に、元禄16年(1703)、岸和田城主・岡部氏が伏見稲荷を城内の三の丸神社に勧請し、城下の民が祭りを行なったことが始まりとされる。ただ、諸説があり、もっと古くから祭りがあったとする地域もある。 多くのだんじりが城内にある岸城(きしき)神社に宮入りするが、この神社も地域のほかの社を合祀してきたという経緯があり、江戸時代の岸和田城下では神社ごとに、6月、8月、9月と年に3回の祭りがあったらしい。明治10年(1877)、岸城神社に宮入りする南祭りと岸和田天神宮の北祭りを同日として、このとき以降、一つの祭りになったという。 岸和田だんじり祭の運営で特筆されるのは、祭禮(さいれい)年番という各町の代表による組織が統括していることである。年番とは、1年ごとに選ばれる祭りの最高責任者で、その存在の記録は享和3年(1803)まで遡る。現在は今年で222代目となる年番長のもと、補佐、補助をする各町年番をあわせて28名の組織で運営されている。 だんじり祭の見せ場はなんといっても、勇壮な「やりまわし」。本来は直進しかできない構造である重量およそ4トンのだんじりを疾走させながら、役割を分担した人々が呼吸を一つにして一気に方向を転換する。祭りの根源といえる生命エネルギーの放出がここにある。 ただ、やりまわしをするようになったのはそれほど古いことではなく、昭和初期に道路が拡張されてからである。それ以前のだんじりは、城下の紀州街道を行き交ったといい、狭い旧街道を、速さを競い、追いかけ、すれ違うことから、しばしば衝突してけんかが起き、「けんか祭り」と呼ばれるほどであった。 以来、問題を避けるために、岸和田の人々は年番を中心に自分たちでルールを定めてきた。昭和30年代以降、だんじりのすれ違いを基本的にないようにし、経路を一方通行にしたのも自分たちで決めたという。岸和田の祭りの運営3条件とは、自主運営、自主警備、自主規制。主催者はあくまで祭りの当事者である自分たちだといいきる。このことを知ると「やりまわし」にも、強い意志表示が感じられて、さらに魅了されるのである。