孫堅を倒し、孫策や孫権を20年近くも苦しめた荊州の大ボス。黄祖とは何者か?
三国の一角、呉の皇帝となる孫権(そんけん)には、不倶戴天(ふぐたいてん)というべき敵がいた。劉表の将であり、荊州北部・江夏郡※(こうかぐん)太守をつとめた黄祖(こうそ=?~208年)である。 ※江夏郡=現在の湖北省の省都・武漢(当時は夏口)を含む一帯 黄祖は謎の多い人物だ。出生地ばかりか、いつごろ江夏太守になったのかも不明で情報が乏しい。同じ江夏郡の出身に後漢王朝の司徒(しと)という要職をつとめた黄琬(こうえん)がいるが、関係は不明である。黄祖には黄射(こうえき)という息子がいたが、のちに彼も章陵(しょうりょう)の太守をつとめた。 やはり相当な家柄なのか、そろって劉表(りゅうひょう)に重用されていた黄祖父子。むしろ劉表が都から荊州へ赴任する前から、彼らは北荊州で重きをなしたのだろう。なればこそ蔡瑁(さいぼう)、蒯越(かいえつ)などと並ぶ重鎮で、劉表の部下というより同盟者のような存在だったとみられる。 191~192年、当時は袁術(えんじゅつ)の命令を受けた孫堅(そんけん)が荊州を攻撃してきた。狙いは劉表の拠点・襄陽(じょうよう)である。このとき劉表が守将として派遣したのが、誰あろう黄祖。襄陽の北岸、樊城(はんじょう)あたりが主戦場となった。 孫堅は、さすがに董卓軍をも破った歴戦の勇士。黄祖の軍勢は打ち破られた(呉志・孫破虜伝=孫堅伝)。しかし、勢いに乗って進軍する孫堅の隙を黄祖の軍は見逃さなかった。漢水をわたり、襄陽まで進んだ孫堅が単騎になったところ、周囲に潜んでいた黄祖の兵が矢を放つ。たまたまか余程の手練れがいたのか。矢は孫堅に命中し、戦いの幕は下りた。 勇将・孫堅の死は衝撃的だったらしく、当時からさまざまな異説があったようだ。注釈者の裴松之(はいしょうし)は、黄祖ではなく呂公(りょこう)の軍兵が岩石を孫堅の頭に落としたという逸話も紹介している。 ■孫策・孫権の仇敵として狙われる だが、これ以降に呂公が登場することはなく『三国志』の呉志には「黄祖」の名が、その後も随所に出てくる。孫策や孫権以下、孫呉の人々が黄祖を仇敵とみなしたことは確かだ。実際、孫策は江東を平定後、兵を西へ向けている。 もっとも、黄祖が守る江夏は陸路・水路の要地。人口もきわめて多い。のちの「赤壁の戦い」もこの付近で起きたもので、その後も三国が激しい争奪戦を繰り返した場所である。誰もが欲しがる土地で、父の死を口実にせずとも狙うのは無理もなかった。 孫堅の死から8年後の199年、孫策はいよいよ黄祖討伐を本格化。周瑜・呂範・程普・孫権・韓当・黄蓋といった歴戦の将たちを押し立て、黄祖が守る夏口へ進軍する。劉表は長矛隊5000を黄祖の増援として派遣するが、孫策軍には歯が立たない。黄祖は命からがら逃亡したという。 しかし、ただで転ばぬ黄祖、この戦いで孫堅の甥・徐琨(じょこん)を討ち取る。「孫策伝」には2万余の首級をあげたなど、孫策軍の華々しい戦果が記される一方、損害も小さくなかったようだ。「劉表が悪逆をなしたのは、黄祖が悪知恵を吹き込んだからだ」(『呉録』)と孫策は上奏文に書いた。やはり孫策は黄祖を激しく憎んでいた。 孫策は、そのまま荊州へ攻め入るかに思われたが、深入りしなかった。一説に、曹操が許都を留守にして北の袁紹と対峙する隙に北方侵攻に向かったという。だが裴松之によれば、孫策の進軍を阻んだのは江南併合の野心を抱く陳登(ちんとう)という。黄祖および長江を南下せんとする陳登に手を焼くうち、孫策は西の荊州にも北の徐州にもほとんど勢力を伸ばせず、不慮の死を遂げる。 ■三代目・孫権との抗争の果てに 孫策の死後、やはり孫権も黄祖討伐の兵を幾度も進めた。1度目の203年には黄祖の食客・甘寧(かんねい)が、孫権の武将・凌操(りょうそう)を射殺して黄祖の窮地を救う一幕もあった。 しかし、黄祖は賊あがりの甘寧を重く用いなかった。ゆえに失望した甘寧は孫権のもとへ身を寄せる。甘寧は孫権に江夏侵攻をすすめた。さらには黄祖軍の内情もばらした。 「荊州を得るには黄祖を倒すしかない。黄祖はすでに年をとって耄碌(もうろく)している。金も食料も乏しいのに側近の甘言にのせられ、金もうけに走り、役人や兵士たちに愛想をつかされている」 この甘寧の言葉が本当だったなら、もっと早くに孫一族は荊州を得られていたようにも思える。だが黄祖が高齢になり、采配に陰りが見えていたというのは確かだったのかもしれない。事実、その言葉を容れた孫権は、4度目の江夏進軍となった208年。ついに黄祖打倒を果たす。 この戦いでも黄祖は二隻の軍船を川に浮かべ、千人もの兵に弩(いしゆみ)を撃たせ、孫権軍を苦戦させる。だが孫権軍は矢の雨をかいくぐって進軍、呂蒙が陳就を討ち、凌統(りょうとう)が張碩(ちょうせき)を斬って江夏城を落とした。追い詰められた黄祖は逃走するが、最後は部下に見放される。彼の首をとったのは馮則(ふうそく)という騎士(騎兵)だったという。 父・孫堅の死からじつに17年。孫権は三代にわたった黄祖との抗争に決着をつけ悲願を果たす。ところがこの年、曹操が荊州侵攻を開始。劉表が病死し、世継ぎの劉琮(りゅうそう)が降伏して荊州北部は曹操の手に落ちる。孫権は結局、江夏郡を支配下に置けぬまま兵を引く。 黄祖の没後、江夏太守になったのは劉表の子・劉琦(りゅうき)だった(諸葛亮伝)。これに代わって、孫呉が江夏郡を実効支配するのは赤壁の戦い以後のことだ。 ■「演義」での扱われ方が致命的になったか 孫堅を倒し、孫策・孫権の猛攻にもしぶとく耐えた黄祖。その人となりを示す史料はごく限られる。比較的、はっきりしているのは名士の禰衡(でいこう)を江夏に迎えたときの言動だろう。当初、黄祖は彼を手厚く遇したものの、非礼で傲慢な禰衡に腹を立て、ついに堪忍袋の緒が切れ殺害に及んでしまったのだ。 そのように短気な面もあったようだが、江夏郡という重要地を10年以上も守り続けたという実績はまぎれもない。まず名将として評価しても良さそうだ。 ただ現実には『三国志演義』で、あまり良く描かれなかったのが彼の不幸である。その第一が、孫堅を討ったのが蒯良(かいりょう)、呂公(りょこう)の手柄にされていること。最後も因縁の相手・甘寧に斬られ、首を孫堅の墓前に捧げられる「やられ役」になり下がった。 守勢に徹し、みずから外征を行なわなかったこと、たびたび敗走しては生き残るので印象が悪いからか。横山光輝の漫画版では、孫堅に敗れるだけの、ザコ扱い。ゲームでの能力も、統率や武力は70前後で名将の一歩手前、政治や魅力は30~40代の赤点だ。評価しづらいのは確かだが、不憫といえば不憫である。
上永哲矢