サッカー元日本代表・稲本潤一が28年の現役生活で残したもの
「(引退については)ここ2~3年は毎年、考えてきました。その都度、子供ができたり、試合に出たりといろんな理由をつけて、先延ばししてきました。でも今年はチームの力になれないなと。僕がいることでみんなの意識が上がるというのは分かりましたけど、僕自身が勝たせるパフォーマンスをするのは厳しいなと。それで決断に至りました」 【写真】稲本選手の歴史を写真で振り返る!引退会見には妻でモデルの田中美保さんも登壇して話題に
南葛SCで3年間プレー。チームを勝たせられないと感じて決断
元日本代表・稲本潤一(南葛SC)が12月4日、長い現役生活に終止符を打つことを記者会見の場で正式に発表した。ガンバ大阪のアカデミーで育った17歳の若武者が97年にJリーグデビューを果たしてから早いもので28年。彼も45歳になり、体が思うように動かなくなったことを実感した様子だ。
2002年日韓W杯で2ゴール。歴史を作った男!
とはいえ、稲本の歩んできたキャリアというのは称賛に値する。クラブレベルではガンバを皮切りに、J1、J2、J3、関東サッカーリーグ1部の国内5クラブでプレー。海外もイングランド、トルコ、ドイツ、フランスの4か国・7クラブで幅広く足跡を残した。 代表に関しても、U-17世界選手権(現ワールドカップ=W杯・エクアドル)、99年U-20ワールドユース(W杯・ナイジェリア)、2000年シドニー五輪と年代別世界大会を総なめにし、2002年日韓W杯に参戦。日本が大舞台で初めて勝ち点を得た初戦・ベルギー戦(埼玉)で2点目をマークし、さらに初勝利を挙げたロシア戦(横浜)では値千金の決勝弾をゲット。仲間を指さした”オレオレポーズ”で一世を風靡した。 「あの指タテポーズを(最後に在籍した)南葛でやってほしいと(オーナー兼代表取締役の)高橋陽一先生に言われたのに、できなかったのが心残りです」と本人も苦笑していた。
W杯3大会出場で2度のベスト16を経験
ジーコジャパン時代は中田英寿、中村俊輔(横浜FCコーチ)小野伸二(Jリーグ特任理事)らと「黄金の中盤」と位置づけられたが、2006年ドイツW杯は中田と福西崇史(解説者)の控えに。それでも、3戦目のブラジル戦(ドルトムント)では玉田圭司(昌平高校監督)の先制弾をアシスト。「稲本、ここにあり」を見せつけた。 その後、オシムジャパン移行は小野や高原直泰(沖縄SV)ら同世代の面々が次々と代表から外れていく中、稲本はオシム・岡田武史(FC今治会長)の両監督から招集され、最終的には2010年南アフリカW杯にも参戦した。 この時は川口能活(磐田GKコーチ)、楢崎正剛(名古屋アシスタントGKコーチ)、中村俊輔らとともにベテランとしてチームを支える側に回ったが、日本が勝利したカメルーン戦(ブルームフォンテーヌ)とデンマーク戦(ルステンブルク)にクローザーとして出場。自身2度目のベスト16進出に貢献している。 日本代表は82試合出場5得点と、152試合の最多記録を持つ同い年の遠藤保仁(ガンバ大阪トップコーチ)よりはかなり少ないが、インパクトの強い活躍をしてきたことは事実。W杯の複数得点者というのは、本田圭佑、岡崎慎司(バサラ・マインツ監督)、乾貴士(清水)、堂安律(フライブルク)と稲本の5人しかいない。そこに名を連ねていることだけでも特筆すべきものがあるのだ。