深谷駅になぜ急行が停車したのか? 国鉄への圧力が生んだ“我田引鉄”の実態、憎めない昭和の利権政治家「荒舩清十郎」をご存じか
地元支持と辞任のはざま
当時報じられた疑惑は次の通りである。 ・大阪拘置所の土地交換に関わる恐喝疑惑について、同年8月に逮捕された田中彰治衆議院議員とともに大阪で関係者と面談していたこと。 ・運輸大臣就任後、国鉄工事関係者など各業界と懇談会を開催し、その度に自身の後援会関係者が顔を出して後援会への入会勧誘を行っていたこと。 ・後援会の会員と、特に名前を伏せるとされた女性が経営する上野駅構内の食堂「あきやま」が繁盛しているとして、店舗面積の拡張を国鉄に要求したこと。 ・同年9月にソウルで開かれた日韓経済閣僚懇談会に出席する際、民間業者2人を随行員として同行させたこと。 これだけの疑惑が積み重なると、深刻な政治問題に発展する。さらに、前述の佐藤内閣に関わる一連のスキャンダルも影響し、自民党への批判が高まり、「黒い霧事件」と呼ばれるようになった。この後、12月27日に佐藤内閣は衆議院を解散し、これが「黒い霧解散」と名付けられることになる。 こうした騒動のなかで、10月11日、荒舩は運輸大臣の座を追われた。このとき、彼は正座して頭を垂れていたが、放言は止まらなかった。辞任の理由を次のように語っている。 「悪いことがあったとは思わない。ただ、今は世論政治だから、世論の上で佐藤内閣にマイナスになると、党員として申訳ないので辞める」(『朝日新聞』1966年10月12日付朝刊) この言葉から、荒舩は自分に悪意はないと考えていたことがわかる。翌1967(昭和42年1月の衆議院選挙では、 「代議士が地元のために働いてどこが悪い。深谷駅に急行を止めて何が悪い」 と演説し、支援者から喝采を浴びている。
急行停車も少ない利用者
こうして辞任はしたものの、10月1日にダイヤ改正は予定通り実施された。深谷駅では念願の急行停車が実現したが、行事はなしで自粛ムードのスタートとなった。 ところが、この停車にもかかわらず、利用者は全く増えなかった。読売新聞1966年10月31日付朝刊では、 「荒船急行止めてはみたが 半分は乗客ゼロ」 という見出しが付けられ、惨めな状況が報じられている。利用が伸びなかった理由は次の通りだ。 「朝8時59分発の上り「第一信州」に乗ると同10時17分に上野駅につくので、商用の人には、その前後の普通列車を利用するより便利。それでも急行で1時間18分、普通列車より14分早く着くだけ」 このわずかな時間差は下りでも同様だった。その上、当時の急行料金は二等が100円、一等が220円だったため、利用者は限られてしまう。真偽は不明だが、市役所がサクラを乗車させているといううわさも流れるほどだった。 実際には複数の疑惑が重なった結果、荒舩は急行停車問題で運輸大臣の座を失った男として歴史に名を刻むことになった。その後、1970(昭和45)年には衆議院副議長に就任したものの、後援会の旅行中に発生した舌禍(ぜっか。言葉によって引き起こされるトラブル)が原因で、1972年に再び辞任を余儀なくされた。