深谷駅になぜ急行が停車したのか? 国鉄への圧力が生んだ“我田引鉄”の実態、憎めない昭和の利権政治家「荒舩清十郎」をご存じか
圧力で変わる鉄道の運命
工場団地が整備され、人口が増えているとはいえ、当時の深谷市の人口は約5万4000人だった(2024年10月現在は14万917人)。近くには、1日に48本の急行が停車する熊谷駅と、15本の急行が停車する本庄駅があったため、急行が深谷駅に停車する必要性は全く考えられていなかった。そのため、運輸大臣の圧力で国鉄がダイヤ改正を行ったことは、疑惑の域を超えて誰の目にも明らかだった。さらに、関係者はその事実を隠すことなく認めていた。 地元の人々も同様の反応を示していた。読売新聞の記事では、深谷市の駒富嘉之助役が 「市長が若いころから、荒船さんと知り合いだから大いに奮闘してくれたのだろうと感謝しています」 とコメントし、大臣の圧力によって急行停車が実現したことを喜んでいる。 当時の報道を見ると、荒舩は独特のキャラクターと発言で注目されており、大臣に就任した際には与党内から「何かしでかすに違いない」と見られていた。そのため、記者の直撃に対して謝ることもなく「一つくらいオレの言うことを聞いてくれてもいいじゃないか」と発言したことは、さらなる物議を醸す結果となった。鉄道史家の小牟田哲彦氏は著書『鉄道と国家 「我田引鉄」の近現代史』(講談社、2004年)で、 「荒舩清十郎という人物が、新聞記者にとっていわば“いじりやすい”キャラクターだったのだろうと察せられる」 と指摘している。 急行を止めるといっても、当時膨大な数の急行が運行していたなかで、1日あたり上下2本だけの話だ。考え方によっては、ほんのわずかな利益誘導にもかかわらず、荒舩のキャラクター性があいまって大きなニュースになってしまったとも考えられる。 さらに火に油を注いだのは、国鉄総裁の石田礼助だった。9月4日、香川県で記者団の質問に答えた石田は、悪びれることなく、荒舩からの要請で急行を停車させたことを認めた。当時の新聞記事によると、彼の発言は次の通りだ。 「運輸省から今村常務理事を通じて選挙地盤の高崎線深谷駅に急行をとめてくれとの話があったが、大した問題ではないので“よいだろう”といっておいた。彼も政治家なのだから――」(『朝日新聞』1966年9月5日付朝刊) この発言は、全く悪いとは思っていないと受け取られるものであり(圧力とも感じていない)、また時期も悪かった。8月1日に内閣改造を終えたばかりの佐藤内閣は、非常に危うい立場にあった。