「わたしらしからぬことをした」 女優・南沢奈央が告白した“罪深き”行為の結末
節度は守らねば、と日々反省は大きくなるばかりだったが、そんなときに出会ったのだ。〈隣の皿からつまみ食いをするように、ちょっと覗き見したり、思わず盗み聞きしたりするのがどうにもやめられない〉という読者を対象にした本に。それが、岡田育さんの『天国飯と地獄耳』だ。〈飲食店で食事中に隣席の様子を窺い、小耳に挟んだ話を拾っていった〉という、妄想アリ・捏造ナシの特異なエッセイとなっている。 居合わせるのは、鮨屋で昼酒を楽しみながら馬刺について熱弁する熟年女性、深夜の吉そばで睡魔と闘う店員と客、両国国技館の桝席の慣れた家族連れ、飛行機のビジネスクラスで世話を焼かれるイケメン男性、ニューヨークのタパス料理店で無知をさらけ出す美人女性など、「いるいる」から「そんな人いるの?!」まで、個性豊かな人物たちだ。 「事実は小説よりも奇なり」とはまさにそうで、それだけでも十分に面白いが、事実から広がる著者のプロファイリングがまた読み応えあり。そのプロファイリングは、分析であり、妄想であり、自分自身との対話ともなる。漏れ聞こえる会話をきっかけに、社会との関わり方について考える。はて奥深し盗み聞き。 また著者は、2015年からニューヨークに住んでいて、この本でいうと中盤からニューヨークの生活へと移る。日本とニューヨークでの飲食店の様相もだいぶ異なり、文化の違いなども垣間見ることができて楽しい。当たり前のように多言語が飛び交い、盗み聞きもまずどこの言語かを聞き分けるのに一苦労だというが、それでもさまざまなエピソードが綴られる。 カフェでの互助システムは知らなかった。作業などのために一人でカフェに来ているとき、トイレに行く間は、隣の席の人に声を掛けて荷物の見張りをお願いするという。声を掛けられたら責任感が生まれて、なんだかちょっと嬉しいような気もする。普段わたしは声を掛けるまではしないが、勝手に周りに「見張っていてくださいね」と心の中でお願いして席を立っている。信頼しすぎだったかもしれない、とはたと思うのだった。
多種多様な覗き見、盗み聞きを一緒に楽しみ、共犯者になったような気分を味わいながらも、自分と向き合うきっかけにもなる。そして最後の最後に、大事なことに気づかされる。 〈隣席を覗くとき、隣席もまた等しくこちらを覗いているのだ。いついかなるときも、ただの観察者として高みの見物に徹することなどできない〉。 そうだ、わたしもあの日、打ち解けたあとにあのYAMAPさんから言われたのだ。「さっきのラム美味しいですよね」「けっこうお酒飲まれるんですね」「本お好きなんですか?」。わたしも見られていた、聞かれていた。お互い様だった。
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