没後20年 炎のストッパー津田恒実を偲ぶ
文責・駒沢悟/フリーライター=元広島番記者 もう20年にもなるのか。 オールスターゲームが来ると私は、広島東洋カープの悲運のストッパー、津田恒実を思い出す。東京ドームで開催されたオールスター第1戦の試合直前に悲報を聞いた。 1993年7月20日。夏の暑い日だった。 忘れられることのない炎のストッパー。そして32歳という若さで病魔に襲われ、この世を去らざるを得なくなった悲運の大投手……。 愛すべき男だった。 私は、スポーツ報知の広島担当記者として、1966年から半世紀近くカープに密着してきたが、今でも、津田のなんとも言えぬ人なつこい笑顔が忘れられない。 何度も共に酒を飲んだ。 私のグラスが空いているのを見ると 「コマさん! もっと飲みんさい!」と、ビールを注いでくれる。 「そこまで気を使わんでええじゃろ」というくらい気を使い、笑わせ、陽気で楽しい酒だった。ふと見ると、本人は、それほど飲んでいない。慢性のルーズショルダー、血行障害……全力投球のツケは、彼の体を蝕んだ。私と飲みながらも体調を気づかっていたのだろう。
山口県立南陽工業時代、1978年の春のセンバツ甲子園でベスト8に入って“ツネゴン”と呼ばれるほど、その豪速球は注目を集めた。当時、山口の防府にあった社会人チームの協和発酵を経て、1981年のドラフト1位で広島に入団した。協和発酵には、たまたま長嶋茂雄さんの立教大野球部の知人がいて、最後まで巨人も津田をドラフトで狙っていた(結局、最後は槙原を指名)。 初めての春季キャンプ。ブルペンで見た唸るようなストレートが忘れらない。 まだ現役だった山本浩二や、衣笠祥雄が、津田のボールを見て目を丸くしていた。受けた達川光男が「ツネゴンのストレートは凄い。浮き上がってくるけえ」と言った。 新人王は先発投手として獲得。その後、怪我に苦しみ低迷するが、プロ5年目にストッパーに転身して見事に復活してリーグ優勝に貢献した。その後も、故障で何度か浮き沈みを繰り返すが、1989年に再び復活した。 「直球一本」 「直球人生」 「弱気は最大の敵」 「一球入魂」 彼が残した数々の言葉は、そのピッチングスタイル、そのままだ。 グラウンドでの女房をずっと務めてきた達川が、こんな話を教えてくれたことがある。 巨人戦。二死満塁で、バッターは左の山本功児。津田は、例によってストレートしか投げない。達川が変化球のサインを出してもクビをふった。 ファウルでだんだんとタイミングがあってきてライトのポール際に、あわや本塁打の大ファウルを打たれた。達川はマウンドに行き「ストレートを狙われとるんじゃけえ。変化球を投げえや。スライダーを投げえ」と詰め寄ると、「嫌です。変化球を打たれると悔いが残ります」と拒否したという。 しょうがなく、ストレート勝負。たまたまボールは高めにホップした。100%ストレート狙いだった山本功児には、そのボール球がストライクに見えたのだろう。ボールの下を豪快に振って空振りの三振に打ち取った。