没後20年 炎のストッパー津田恒実を偲ぶ
頑固な男だった。 持ち球は、フォーク、スライダーに、本人が自虐気味に「しょんべん」と評したカーブ。晩年にはチェンジアップもあった。しかし、ストレートにこだわった。ピンチになればなるほど電光掲示に出る球速がアップした。それが津田のプライドだった。しかし、プロの世界は、ストレート一本で勝負できるほど甘くない。他球団のスコアラーは、「津田ほど何を投げてくるかがわかりやすい投手はいない」と言っていた。 「津田は、サインにクビを振ったらストレートだから」 1988年には9試合もサヨナラ負けを喫したことがあって、「サヨナラの津田」と、悪名をもらったこともある。しかし、不思議なことに、彼が打たれても、ファンだけでなくチームメイトの誰一人として津田を責める人間がいなかった。 「津田はいつも全力じゃけえ。あの津田が打たれたら、しょうがないという信頼感があったんじゃろ」。達川は、そう言っていた。 真の信頼感とは、そういうことだろう。 負けた日は、必ず球場に誰より早く来て、広島市民球場の外野スタンドを走った。それは津田なりのファンへの謝罪の表現方法だったのかもしれない。そういう真摯な姿を見ると、ファンも打たれた津田に罵声を浴びせることに気が引けたのだろう。 彼は、なぜ、そこまでストレートにこだわったのか。 私は「打たれたら後悔したくない」という自己満足だけではなかったと思う。私は「そこまで投げてきたピッチャー、そしてチームのためにも自分の全力を出して勝負するのだ」という強い責任感の裏返しだったと思う。 「気持ちで相手バッターを上回りたい」 それが彼のピッチング哲学だった。1986年のピッチング内容を円グラフにすると投球の90%がストレートだったが、私は、その半分は気迫だったと思う。 あれは病気が発覚、長期離脱することになる1991年の日南での春季キャンプだった。 取材を兼ねて一緒に飲んだ時、彼は「コマさん。オレ、癌じゃないだろうか」と、突然、真剣な顔で打ち明けたのだ。頭痛に襲われ、体に力が入らなくなり、眠れない、疲れが取れない。津田は、この時から、もう原因不明の体調不良に襲われていた。 達川も異変に気がついていた。 「ストレートがワンバントするようになったんじゃ。おかしかった」 脳の手術で摘出できない位置に腫瘍ができていた。脳内にある腫瘍が頑強な津田の肉体を蝕み、代名詞のストレートをも狂わせたのだろう。本人には告知されたが、当初、球団は水頭症と発表して脳腫瘍であることを隠していた。津田は、再起の日が来ることをあきらめていなかった。実際、容態が上向きになったこともあった。だが、野球どころか生命の危機に貧する病気だった。病が発覚して3年で、炎のストッパーと呼ばれた人は還らぬ人となった……。32歳。全力で駆け抜けた人生だった。 プロ通算10年で、286試合に投げ49勝41敗90セーブ。693イニングを投げ542奪三振。新人王、カムバック賞、日本シリーズ優秀選手賞、ファイアマン賞を獲得。 「気持ちで相手バッターに勝つ」 投手にとって一番大切な哲学は広島の投手陣に伝承されているのだろう。広島の本拠地、MAZDA Zoom-Zoomスタジアムのブルペンには、津田氏を偲び「津田プレート」が掲げられている。『笑顔と闘志を忘れないために』と書かれたプレートを触ってから投手はマウンドに行く。 これは、あくまでも私の私見だが、広島の投手陣だけでなく、オールスターに出場した大谷や藤浪、150キロを超えるストレートを武器にする素晴らしい投手を見ても、津田のストレートには、及ばない気がする。津田の最速は、153キロだったが、全身を躍動させるダイナミックなピッチングフォームは、まるで炎に包まれているようだった。打者に立ち向かう燃える何かがハッキリと見えたのだ。 「もう二度と、津田のようなピッチャーは見られんのかな」 没後、20年……その日、アルコールを傾けながら、そう思った。 津田氏は、昨年、その功績を讃えられて野球殿堂入りしている。