「零戦でもっとも戦った搭乗員」が戦後、自分の生活を犠牲にしてでも続けた「慰霊行脚」
寄る年波には勝てない
「櫻森飛長が、火の玉になって空母フランクリンに命中するところまでを御父様に報告できて、やっと『戦果確認機』としての使命を果たすことができたと思いました」 と、角田は述懐する。 やがて、寄る年波で、1本だった角田の杖はいつしか2本になり、靖国神社の本殿の階(きざはし)を上り下りするのも一苦労するようになった。 慰霊祭に向かう道中、電車のなかで気を失い、救急病院に運び込まれたこともあったが、それでも角田は、関係した部隊の慰霊祭に靖国神社へ行くことをあきらめなかった。 「いまもよく夢に見ます。死んだ連中が出てきて、眠っていてもこれは夢だとわかるから、はじめのうちは、『お前たち、また出てきやがったか! 早く成仏しろ』と追い払うように無理やり目を覚ませたものですが、歳月が経てば経つほど、夢なら覚めないでほしい、もっとゆっくり会っていたいと思うようになりました。でも、そう思えば思うほど、夢ははかなくすぐに目が覚めてしまうんです」 敵艦にまさに突入するときの特攻隊員の心情は想像するしかない。だが、角田には、自らの体験に照らしてのある確信があった。それは、角田がソロモンで戦っていたときのこと。
夢の中での戦い
「輸送船団の上空直衛をしているとき、爆弾を積んだグラマンF4Fが20数機で攻撃に来たのに列機がほかの敵機を深追いして、味方船団上空には私一機しかいなくなったことがありました。爆弾を命中させないためには、敵の注意を全部、私に向けさせなければ、そう思って、単機で下から突っ込んで行った。すると案の定、ガンガン撃ってきました。 ――撃たれたときは嬉しかったですね、よし、これで俺の作戦は成功したと。射撃しながら爆撃の照準はできませんから、輸送船には一発の爆弾も当たらなかった。ガンガン撃たれながら、それまで固くなっていたのが、フワーッと胸がふくらむ思いがしました。 私は、胸がふくらむ思いを経験したのはそのときだけでしたが、特攻隊員も、命中した人はみんな、同じ気持ちだったろうと思うんです。それまでは怖れて体を固くしてるでしょうが、よし、これで命中するぞと、何秒か前にはわかると思います。そのときはおそらく胸をふくらませたんじゃないか。 それが自分の経験からして、ひとつの慰めになるんです。そう思わなきゃいられないですよ。ただ、これを戦後世代の人に理解してもらうことはむずかしいでしょうね。ほんとうに胸をふくらませるような、幸せな気持ちになったことがある人が果たしているのかどうか・・・・・・」 90歳を超えて歩行がさらに困難になり、外出が意のごとくならなくなったあとも、角田は自宅で、亡き戦友たちを静かに弔い続けた。