商社で活躍できる人の共通点は?「大物より小心者、優等生よりハングリー」
「冷めちゃいけない。泣いて笑って商売して」
総合商社の人間は海外支店へ行くと、40代でトップを務める。現地で働く日本人会の会長をやったり、日本大使、公使と一緒にパーティに出席する機会がある。そんな時、財閥系商社であれば駐在の歴史が長いから現地に豪壮な屋敷を持っていたりする。 一軒家で使用人もいるから、パーティを開く時も都合がいい。ところが伊藤忠の場合はそうはいかなかった。 広めの賃貸マンションが現地社長の住まいとなる。大勢の人を集めてのパーティはできない。しかし、少人数を招いての食事会ならばやることができる。 石井はそうした不利な条件であっても、「ロールオーバーべートーベン」を頭のなかで鳴らし、あるいはレコードをかけて、接客した。 彼は言う。 「伊藤忠はこのところずっと大学生の就職人気ナンバーワンです。一流大学の優等生が増えました。だから、ハングリー精神はあまりないのかなとも思っていたんです。ですが、まったく違いました。 アメリカに出張した時のことですが、伊藤忠が出資している事業会社に出向している若手社員が泣いたり笑ったりして頑張ってました。 優等生だし、最近の世代は冷めてると言われてますけれど、ぜんぜんそんなことなかった。うちの若い社員が現地の社員とじゃれ合っていて、その姿は僕らが若い頃と一緒でした。 現場を見れば分かりますよ。彼らは海外で外国人と押したり引いたりしながら入り乱れて仕事をしたいんだな、と。 商社に入ってくる人間って困ってる人を助けたいとか、この人たちと笑顔になりたいとか、成功体験を味わいたいとか、感動の現場にいたい人間です。それが伊藤忠らしさでもある。仕事から得られる感動って現場に行ってこそのもの。現場にぶち込めば商人として磨かれる」
「商人は接客業」
石井もまた岡藤と同じように新入社員から5年間は「受け渡し」という事務の仕事をしていた。 「伊藤忠の新入社員は営業に配属される『受け渡し』という業務に就きます。先輩が決めてきた商売の商品の受け渡しをする。商品を安全にお客さまのもとに届けて仕事が完結する。手配、物流のサービス担当です。 私は受け渡しを5年、やりました。通常は1年か2年ですが、儲かっていない部門で、新人が入ってこなかったから、5年間、やりましたね。 専門的な話になりますが、化学品の受け渡しとは化学品を積み込むタンカーを手配することなんです。私の担当は国内と近海の手配で、例えば名古屋から京浜に運ぶ、山口県の徳山から神戸に運ぶ、あるいは京浜地区から宇部に運ぶ。 毎日、8隻から10隻の船を手配して8種類程度の化学品を積んで運ぶわけです。 1980年の中ごろでした。まだアナログな時代ですから、PCもスマホもありません。分厚い受け渡し用の台帳をめくって、配船を決めて、電話連絡する。 どこの船がどこにいるかは船会社に問い合わせなくては分からなかった。今ではもうメーカーさんご自身がネットとメールで完結しています。誰でも位置情報を見れば分かる。 当時は届け値で決めていたので、商社が用船手配をして化学品を納入をしていました。 あの頃、今でもそうでしょうけれど、私が担当していた内航船は物流が多くて船が足りなかった。船をアレンジするだけで大変だったんです。 三菱商事さん、三井物産さんは系列の船会社があるから、用船も手間はかからない。ところが、伊藤忠はいちいち化学品用タンカーのオペレーションをやっている船会社に依頼をして、積み地(出発港)と揚げ地(到着港)のそれぞれの担当者と連絡を取り合いスケジュールを調整しなければならない。 夕方の5時までに船名を連絡しなきゃいけない。連絡すると、現地担当者は『危険物の船積みです』と海上保安庁に船名を登録する。まあ、複雑な手続きのいる受け渡しだったんです。 とにかく船積みと天候、航海の時間をきっちり把握して、化学品を受け取るメーカーさんに連絡しないと、彼らは困る。もし船積みが遅れて、港への到着が遅れると、最悪の場合、プラントが止まってしまう。これはもう大失敗ですから、一度でもプラントを止めたりしたら、補償問題に発展し、私は会社にはいられなくなったでしょう」
「情報は声をかけにくい人が持っている」
「船が見つからなかったり、船積みが遅れたりしたことは何度もありました。それは失敗です。それでも化学品が届けばいい。 遅れを知るには『今、おたくの船はどこにいるんですか?』と聞いて、把握しておかなくてはならない。荷揚げ後の空になった船をまた傭船(ようせん)して、他の品物を運んでもらうからです。インターネットがなかった時代の用船手配は自分で情報収集して、すべて電話で行う。その場その場の判断も必要です。船のことに詳しくなればなるほど、仕事が上達する」 そこで、石井は考えた。
野地秩嘉