2050年には95%が海に沈むインドネシアの首都移転。"市民置き去り"の実態
「ここは政府に見捨てられた街なんだ」 そう話すシュプリさん(60代男性)と出会ったのは、ジャカルタ北部の海岸だ。ムアラバル地区と呼ばれる、地盤沈下が激しいベイエリアである。取材に同行したカメラマンが2mほどの高さがある堤防によじ登ると、堤防裏で貝を採っていたシュプリさんの姿があった。 「このモスクには海水が入ってきて、もう20年以上前から使えなくなっているんだ」 シュプリさんが指さす先には、水没したモスクがあった。インドネシアは国民の8割以上がイスラム教徒だ。彼らにとってモスクが神聖な場所であることは言うまでもない。かつて、この辺り一帯は砂浜が広がっていたが、年々海水が押し寄せ、2000年頃から浸水を始めたという。 海面から顔を出していた外壁の一部には、黒いペンキでこう落書きされている。 〈KAPOEK PRIDEY〉 通訳によれば、日本語への直訳は難しいが、「ほら、みたことか」というニュアンスに近いという。政府が長年洪水対策を放置し、大切なモスクが海に漬かってしまったことを皮肉っているのかもしれない、とつけ加えた。 政府は14年頃から、浸水を防ぐため、慌てて堤防建設をスタート。だが、その堤防の下部からは、少しずつ海水が染み出しているのが見えた。 海岸沿いには、今にも崩れ落ちそうなバラック小屋が軒を連ねる。外にはシャツや下着が干され、痩せ細ったヤギが放し飼いにされていた。 「堤防がなければ、この一帯は海の中だ。いつかはここを離れなければならないけど、そんなお金はないからね」 そうアリさん(20代男性)が笑った。今夜のおかずにカニを捕っていたアリさんは、移住しようにも、先立つ資金がないと嘆いた。 さらに近隣の定食屋で働く女性は、「ここが海の中に沈むなんてありえないわ」と、現実を受け入れていない様子だ。揚げたチキンの定食にドリンクをつけて2万1000ルピア(約200円)で提供しているが、1日に来る客は数えるほどだという。 現地のジャーナリストがこう語る。 「インドネシアでは、『タペラ』と呼ばれる住宅基金が、ほぼすべての就労者から自動的に徴収されることが決定したばかり。国民が将来住宅を適正に購入できるための強制的な貯蓄ですが、政府は国民に今後新首都で住宅を購入させようとの思惑があるともいわれています。 ただ、多くの貧困層は、こうした制度で救われることはない。まさに今、地盤沈下の影響を最も受けている人たちが置き去りにされているともいえます」 取材で出会ったインドネシア人の多くは「首都を移転する金があるなら、私たちの暮らしを楽にしてほしい」と語ったのが印象的だ。 8月17日に執り行なわれた第79回独立記念式典。ヌサンタラの新宮殿で伝統衣装に身を包み誇らしげな大統領の表情の陰に、困惑する国民の姿が見えた気がした。 取材・文/甚野博則 撮影/郡山総一郎 写真/時事通信社