渋沢栄一いくつかの小話(4完)岩崎弥太郎と熾烈な海上覇権争い、日本郵船が誕生
半官半民で「共同運輸」設立し三菱に挑む
海上輸送での三菱の独占を黙認できない渋沢は、地方資産家に出資させて東京風帆船(ふうはんせん)会社を発足させる。だが三菱の勢いを止めるに至らず、明治15(1882)年に一大海運会社を設立する。渋沢自慢の株式会社で資本金は実に600万円、前述の「共同運輸会社」の誕生である。半官半民の国策会社で、明治16年1月1日に営業開始。初めは船体不足で三菱の優位は動かなかったが、社長である森岡昌純自らイギリスに乗り込み、新鋭汽船を購入して戦力アップするにつれ競争が激化する。 歴史に残るすさまじい運賃の値下げ合戦となる。神戸~横浜間の運賃は、これまでの下等船客5円50銭が1円50銭になり、1円になり、とうとう55銭にまで暴落。共倒れの気配が強まり、明治18(1884)年1月13日、西郷従道農商務卿は両社に競争中止を勧告する。協議を重ね、2月5日に休戦が成立。この2日後に弥太郎が死去。三菱の大将は弟の岩崎弥之助となる。 再び競争が始まるが、同年8月15日、共同運輸会社の臨時株主総会で三菱との合併を決議、「日本郵船」となる。共同運輸600万円(民間340万円、政府260万円)、三菱500万円出資、資本金1100万円の巨大会社の誕生となった。 渋沢が往時を語る。「弥太郎氏は私との間に仲直りできないうちに没したが、その後競争はますます激しくなり、両社とも共倒れになって外国汽船会社に乗ぜられるよりほかになきに至ったので政府も調停に決し、私も両社合併に骨を折り、9月に合併、日本郵船会社が設立されることとなった。以来私と岩崎家との確執も解け、弥之助氏とは親密に交際するに至った。明治26(1893)年には弥之助の要請を入れて日本郵船の取締役に就任する。渋沢と岩崎兄弟の戦いは大団円となる。 異能のジャーナリスト野依秀一の渋沢栄一評。 「資性温厚、人格高邁にして一度事に当たるや、いささかも私利を希わず、常に国家的見地に立ち、深謀遠慮をもって邦家永遠の計を成す。論語を信奉し、処世の大道となすことに終始して変わらなかった。実に近世日本における稀有の俊傑、財界の元老にして、その遺績たるや、廟堂の元勲諸公に比して優るとも劣ることはなかった」=敬称略 ■渋沢栄一(1840~1931)の横顔 天保11(1840)年、武蔵国血洗島村(埼玉県深谷市大字血洗島=ちあらいじま)で生まれる。村でも有数の財産家だった。13歳のころ父に連れられて初めて上京する一方、単身で藍玉の買い付けに出かける。慶応2(1866)年、幕臣となり、翌3年にパリ万国博使節として渡欧、明治3(1870)年に官営富岡製糸場主任、同8(1875)年、第一国立銀行頭取。同11(1878)年に東京商法会議所(のちに東京商業会議所)会頭、同20(1887)年に帝国ホテル会長、同24(1891)年に東京交換所委員長を歴任した後、同34(1901)年、飛鳥山に転居、本邸とする。同35年に欧米視察、同42(1909)年に米実業団を組織して渡米。大正4(1915)年に渡米、同6年に理化学研究所を創立(のち副総裁)し、同9(1920)年には男爵から子爵へ。同12(1923)年の関東大震災で兜町の邸宅は消失。昭和6(1931)年11月11日没。天保以来、11の元号を生き抜いた。「青淵」の雅号は近くにきれいな淵があったことに由来する。