渋沢栄一いくつかの小話(4完)岩崎弥太郎と熾烈な海上覇権争い、日本郵船が誕生
渋沢の「合本主義」と岩崎の「独占主義」
海上輸送で覇権を握った三菱による独占の弊害が目立つようになり、政府と三井は「共同運輸会社」を立ち上げる。そして未曽有の運賃値引き競争に発展、三菱の勝利に終わるが、渋沢栄一は岩崎についてこう語っている。 「岩崎は共同出資で事業を経営することに反対した人である。多人数寄り集まって仕事をすれば理屈ばかり多くなって成績の上がるものではないという意見で、なんでも事業は一人でどしどしやっていくに限る主義であった。私が主張する合本主義の経営に反対したが、それだけに部下に人材を網羅することには骨を折り、学問のある人を多く用いた。私は弥太郎のなんでも自分一人でやるという主義に反対だったから万事に意見が合わなかったが、明治6(1873)年に私が官途を辞めてから弥太郎氏は私とも交際しておきたいとのことで兜町の宅に訪ねてこられた」
対決は岩崎弥太郎の「連勝」でスタート
資本を出し合って株式会社経営の時代が来たと説く渋沢と独占主義の岩崎は相交わることはない。渋沢と岩崎の対決は生涯5、6回に及ぶが、いずれも岩崎が渋沢に仕掛けた形跡が濃い。まず第1ラウンドは渋沢の肝いりで設立した日本帝国郵便汽船と三菱商会の対決。渋沢は後日述懐している。 「お上の息のかかった帝国郵船の成績はすこぶる不良、しかるに弥太郎は鯨吠ゆる土佐の海を渡ってきた男だ。身上(しんじょう)は小さいけれども、野育ちだけに手荒いことも平気でやる。されば勝負はすでに明らかだった」 明治11(1878)年、渋沢が三井系の資本を合本して東京株式取引所(東株)が誕生する。ついに渋沢の持論が実践された。資本金20万円の株式会社で、頭取には初め小松彰が就くが、すぐ渋沢栄一の従兄・渋沢喜作を据える。栄一と喜作は“お神酒徳利”と言われるほど仲が良かった。岩崎がどうやって株を集めたか分からないが、西南戦争(1977年)で巨利を博した後だけに値段を問わず買いまくり、臨時株主総会の開催を要求、“渋沢内閣”を退陣に追い込む。側近の朝吹(あさぶき)英二ら息のかかった経営陣に改め、乗っ取ってしまう。 「渋沢の兵糧を断つ」とばかりに岩崎の攻めは続く。渋沢の本陣、第一銀行の大口預金者が東京米穀取引所(東米)であることを突き止めると東米の株買い占めに着手。朝吹の株集め策が成功、株主総会でどんでん返しを演出、またも岩崎の勝利。