「戦死は怖くない。それよりも、早く上官を殴り返したい」 精神主義と暴力に満ちた軍隊を生きた99歳元学徒兵の本音とは
父は太平洋戦争末期の沖縄戦を戦った陸軍大佐で、自身も学徒兵になった。軍国主義の真っただ中を生き延びた鍼灸師の塚本此清さん(99)は「戦争で死ぬのは怖くなかった。それよりも、早く昇級して上官を殴り返したかった」と苦々しげに振り返る。当時の上官は、こう言い放っていた。「(戦争に)負けると思わなければ、負けない」。そんな狂気のような精神主義に覆われた軍隊の中で、塚本さんたち学徒兵は理不尽な暴力に耐え続けた。(共同通信=武田惇志) 【写真】妊娠した女性を連れた男は、父に、銃を渡して頼んだ 「僕たち2人を銃で殺してください」 その場を離れ、しばらくして戻ってくると… 11歳の少年が味わった〝地獄巡り〟
▽軍人教育のトラウマ 塚本さんは1925(大正14)年、熊本県で生まれた。父・保次さんは陸軍士官学校を卒業した軍人で、幼少期に保次さんの転任に伴って和歌山県へ移った。 保次さんは当時、連隊区司令部勤めの士官。ぴかぴかに磨いた長靴を履き、馬に乗って司令部へ。営門を通るとラッパが吹き鳴らされる。そんな毎日だった。 だが戦前の軍縮の流れを受けて減員の対象となり、小学校での軍事教練の教官へと転任することになった。以前とは打って変わって、自転車をこいで学校へ通う生活へと様変わり。それが父の大きな不満の種だったと、塚本さんは言う。 「私は毎日、父に殴られた。殴る蹴る、水をかぶせる、縄で縛り付ける。それがトラウマになっちゃって。今でも中年の男性を前にすると、圧迫を感じるんです。女性は平気なんですが」 さらに、朝は最初に起きて飯を炊き、夜は親の布団を敷く。その上、試験の成績はトップを求められる。塚本さんが旧制中学3年になって父が単身で転任していなくなるまで、そんな日々が続いたという。 15歳の時、ラジオで太平洋戦争の開始を知った。当時は「こんな戦争するのか」という程度の感想だった。
中央大の予科に進学したころには戦況が悪化し、予科2年からは勤労動員の対象に。現在の東京都江戸川区平井にあった鋳造所の寮に入れられ、工場で重労働を課された。 「潜水艦の排水弁を作りました。もちろん、何を作っているかなんて指導者は教えてくれません。周囲からそれとなく伝わってきただけ。溶解炉に鉄鉱石を入れて、コークスと混ぜて。工場内はものすごい暑さで、みんなバタバタ倒れていく。それを1年間、やり通しました」 ▽軍隊内の暴力 学生は労働力だけでなく、兵力としても動員された。塚本さんは1943年10月21日、明治神宮外苑競技場で、文部省主催の「出陣学徒壮行会」に参加。戦地へ向かう上級生を見送った。 「雨の中、東条英機が偉そうにしゃべってるのを聞いていた。戦争に勝てるなんて、この時点ではもう誰も本気で思っちゃいないですよ」 徴兵検査に甲種合格した塚本さんは1944年、入隊してすぐ伍長になれるという理由で、船舶特別甲種幹部候補生に志願した。塚本さんは説明する。