「戦死は怖くない。それよりも、早く上官を殴り返したい」 精神主義と暴力に満ちた軍隊を生きた99歳元学徒兵の本音とは
一方、他の部隊は隠匿物資を盗むのに夢中になっていた。「倉庫には新品の靴や服、米俵、それに砂糖まで隠されていて驚きました。それを船やトラックに乗せて持っていく。泥棒集団ですよ」 塚本さんの隊の解散時には、積もりに積もった区隊長への恨みから「船の中で毛布をかぶせてボコボコにしよう」という話が持ち上がった。「でも、船にはまだ憲兵がいて、捕まったらばからしいって話になって結局、やらなかった。他の隊では、上官に歩兵銃を突きつけたところもあったようですね」 その後、塚本さんは東京に帰って中央大に復学。「資本論」など、かつての発禁本が自由に読めるような時代になったのを喜んだ。 ▽父の運命 その間、父・保次さんの生死は不明なままだった。 実は、6月23日の第32軍司令官・牛島満中将の自決後、「祖国のため最後まで敢闘せよ」という司令官の命令に従い、保次さんは沖縄本島南部の洞窟に潜伏していた。芋や米兵の残飯などを盗みながら命をつないだという。 通信技術の専門で航空情報隊の隊長だった保次さんは、終戦への動きも電波を傍受して察知していたとみられるが、8月17日になって安全を確かめながら米軍に投降。その際に米軍将校から、降伏を拒み続けている部隊への説得を依頼された。亡くなった牛島中将に代わり、第32軍司令官となって投降を勧告しろというのだ。
上原正稔「沖縄戦トップシークレット」(沖縄タイムス社)によると、保次さんは「おこがましいが、友軍を救うためならどんなことでもしよう」と返答。8月19日に渡嘉敷島と阿嘉島の部隊に対し、「誠に残念であるが、天皇陛下の命令に服し、連合軍に降伏することが日本軍の義務である」と私信を送り、投降へと導いた。 米軍の捕虜収容所では高級参謀・八原博通大佐と再会。八原大佐から依頼され、沖縄戦についての記録を残すための収容所内での聞き取り活動に協力した。 塚本さんによると、保次さんはその後の復員時に、司令官就任についてとがめられ、階級を中佐に落とされたのだという。戦後は収容所で覚えた俳句を支えに生き、80代で亡くなった。 「『最後まで敢闘せよ』と命じながら、司令官が自決した。そのとき、父はどういう気持ちだったのか。『こんちくしょう』と思っていたんじゃないか。司令部がなくなっちゃったのに、兵たちには自分たちだけで戦えなんて、勝手すぎる。だから父は米軍と戦わず、部下とともに隠れながら命を永らえることを選択したんじゃないかと思います」
塚本さん自身は大学卒業後、就職先で労働組合活動に参加。米軍の占領政策を批判して当局に目をつけられたこともあった。そんな戦後の荒波を経て、40代で鍼灸師の道へ。昨年まで現役で働いたという。 振り返ってみれば、父子ともに“軍隊”に左右された日々だった。そんな塚本さんにとって、軍隊とは何だったのだろうか。記者が尋ねると、塚本さんはこう答えた。 「あんな嫌なところはないよ。早く戦争に行って死んだ方がいいやって、そう思ってたね」 * * 読者からの情報提供などを募集しております。こちらにお寄せください。 shuzai.information@kyodonews.jp