「戦死は怖くない。それよりも、早く上官を殴り返したい」 精神主義と暴力に満ちた軍隊を生きた99歳元学徒兵の本音とは
▽切腹未遂と泥棒集団 7月、兵舎として使われていた高松市の小学校に移動。4日早朝、塚本さんは見習い小隊長として寝ずに報告書を書いていたところ、突然、隣の部屋のガラスが割れる音を聞いた。高松空襲の始まりだった。 「様子を見に行くと辺りが燃えていて、みんなを起こした。将校も下士官もどこに行ったか分からない。仕方ないから隊を練習時のように編成して逃げた」 すでに校舎の上まで火が回っていた。校庭一面も火の海で、逃げる余地がない。練習用に備蓄された弾薬が爆発する恐れもあり、一刻の猶予もなかった。毛布を持ち出して焼夷弾の炎をはたきながら、校庭を脱出した。暑さの中、群衆とともに塩田へと逃げた。塩田からは、B29が機雷を瀬戸内海へ落とす音が聞こえてきたという。 翌朝、校舎に戻ると、焼夷弾で小銃の先がつぶれた隊員がおり、上官から散々殴られていた。 その後しばらくして、軍刀や長靴を買わされた。塚本さんたちは「いよいよ卒業か」と喜んだ。しかし8月になっても音沙汰がなく、いぶかしんでいたところ、15日に「ラジオ放送があるから集まれ」と招集された。いわゆる玉音放送だったが「ガーガー音がするだけで何言ってるか分からなかった」
翌日、海軍機が飛んできて「政府は降伏したがわれわれは降伏しない。戦おう」と戦争継続を呼びかけるビラがまかれた。その翌日にも「まだ戦争しているから続けるように」と伝えに来た飛行士がいた。だが数日後、ついに皇族から「戦争をやめるように」と連絡があったという。 すると区隊長は、隊員たちにこう迫った。 「こうなったらしょうがない。天皇陛下におわびして切腹しよう。賛成の者は手を挙げよ」 隊員たちは皆、顔を見合わせながら手を挙げた。塚本さんも最後になって渋々、手を挙げたという。全員、兵舎に戻り、買わされた軍刀を手にした。 「でも、いざ振ってみても全然切れない。そのころの軍刀なんて、なまくらだったんですよ。昔の立派な日本刀なんかじゃない。みんなして『こんなもんで切れるかよ』って叫んでね。結局、誰も本気じゃなかったんです」 区隊長はまた、もし米軍が天皇制を廃止したら「宮城前で決起しよう」と豪語し、そのために今から鍛えておこうと隊員にマラソン訓練を強制した。走っているうちに水虫がうんで足が痛み出した塚本さんは、ついに反抗の言葉を口にした。「もう、ばかばかしくなってね。『水虫ができたから走るのやめます』と伝えた」。すると区隊長は「おまえはなんだ。おまえみたいなのがいるから、負けたんだ」と激高。これまで殴られなかった塚本さんも、ついに殴られたという。