「戦死は怖くない。それよりも、早く上官を殴り返したい」 精神主義と暴力に満ちた軍隊を生きた99歳元学徒兵の本音とは
「以前から、もうこんな国で生きるのは嫌だと感じてたから、早く死んだ方がいいやって思って、それで船舶の部隊を受験した。飛行機よりも死亡率が高いと言われててね。ぐずぐず教育なんてやってないで、早く戦争行けって思ってた」 1945年1月、訓練施設があった香川県豊浜町(当時)に移動。初日こそ「体罰はしない」と言われたが、2日目から上官の暴力が始まったという。上官たちは、父親が陸軍大佐だった塚本さんに手を出すことはほとんどなかったが、同期生たちには一切遠慮なく体罰を与えた。 雪の中、服を全てはぎ取られる体罰もあり、1カ月で部隊の3分の1ほどが肺炎になって追い出されたという。食事は麦飯と、親指の先ぐらいの肉が入ったみそ汁だけで、「おなかペコペコ。そんな生活で毎日、訓練でツルハシかついで走らされた」。訓練で倒れた者も追い出された。座学では操舵法、気象学、モールス信号や手旗信号などをたたき込まれ、試験を通過できた者だけが残ることができた。 とりわけ苛烈だったのが、1学年先輩だった区隊長。私大出身で、雨の明治神宮外苑を歩いた学徒兵だった。塚本さんは苦々しげに振り返る。
「これが徹底した精神主義でね。『負けると思わなければ、負けない』『一億玉砕だ』ってことばかり言う。何を不合理なこと言ってんだと思ったね」 6月、塚本さんたちは軍曹に昇級。同月、沖縄が陥落したという情報が流れると、隊の1人が「これで日本は負ける」と口にした。すぐに何者かが区隊長に密告し、寝床からたたき起こされた。そのまま、向かい合わせで殴り合いをさせられたという。 あと数カ月もすれば、ここを卒業して見習士官になれる。そうしたら、自分たちを散々殴ってきた下士官たちに対し、殴り返せるようになる。塚本さんたちは、そんなふうに自分たちを励まし合った。 「戦争で死ぬことは怖くなかった。それよりも、こいつらを殴り返したいって気持ちの方が強かったんです」 そんな中、同期生たちとは「俺たちは何のために死んでいくんだ?」という議論になった。哲学者カントの読書サークルを秘密裏に組織し、勉強会を開いていたという。「カントは平和主義だから。みんな、『俺たちは天皇のために死ぬんじゃない。もし日本が米軍に占領されたらどんな目に遭うか分からないから、そのために死ぬのはしょうがない』って話になった」