美術界の権威と衝突した「尾竹三兄弟」、凄まじいインパクトを放つその魅力とは?展覧会から撤去された幻の絵も公開
(ライター、構成作家:川岸 徹) 官展や巽画会等を舞台に輝かしい活躍を見せた三兄弟の画家「尾竹三兄弟」。明治末期に時代の寵児として一世を風靡したが、その名は日本画壇から消えてしまう。泉屋博古館東京にて展覧会「オタケ・インパクト―越堂・竹坡・国観、尾竹三兄弟の日本画アナキズム」が開幕。美術界の権威に翻弄された三兄弟画家の真の姿を探る。 【写真】展覧会初日からわずか4日間だけとなったいわくつきの幻の絵画《絵踏》 ■ 知られざる画家・尾竹三兄弟 若い頃から豊かな才能を発揮し、日本画壇の花形作家として活躍。だが、時の権力者と対立し、本流からこぼれ落ち、不遇の時期を迎えてしまう。それでもめげずに権威主義の改革を訴え、衆議院選挙に立候補するも念願かなわずに落選。いつしか日本美術史の中で語られる機会はほとんどなくなってしまった。 そんなドラマのようなストーリーを地で行った絵師がいる。長男・尾竹越堂(おたけ・えつどう1868~1931年)、三男・竹坡(ちくは1878~1936年)、四男・国観(こっかん1880~1945年)の三兄弟だ。彼らは明治から昭和にかけて文部省美術展覧会(通称・文展)など数々の展覧会で成功を収め、画壇の寵児として一時代を築いた。 繊細で美しい線、バランスがよくそれでいて個性を感じさせる構図、時代の先を行く実験的な表現。尾竹三兄弟は圧倒的に「上手い」。そして、花形作家となったのも当然と思えるだけの「売れる要素」が詰まっている。では、なぜ彼らは無名なのか? 「はじめまして、尾竹三兄弟」。そんなキャッチコピーで開幕した「オタケ・インパクト―越堂・竹坡・国観、尾竹三兄弟の日本画アナキズム」。東京初となる尾竹三兄弟の展覧会で、彼らの作品を鑑賞しつつ、無名である理由に迫ってみたい。
■ 売薬版画や挿絵で腕を磨く 新潟県で紺屋(染物屋)を営む家に生まれた尾竹三兄弟。家業の傍ら「国石」という号をもち文筆や絵を得意とする父・倉松と、食客として尾竹家に滞在していた南画家・笹田雲石から手ほどきを受け、作画のいろはを学んでいく。 だが、家業の経営が悪化。三兄弟は富山に移り、富山のクスリにおまけとして付いていた売薬版画や新聞の挿絵などで生活費を稼ぐようになる。絵は生活のためのもの。そう割り切りつつ、様々な物語を注文主の意向に沿って絵画化する挿絵の仕事は、画力を高める鍛錬になった。 その後、竹坡は京都円山派の川端玉章に師事し、国観は歴史画の大家・小堀鞆音に入門。二人は「よりお金を稼ぎ、立身出世するためにはどうしたらいいか」と考えた。その答えは「展覧会」。明治30年代、二人は次々に展覧会で入選を重ね、若くして頭角を現していく。 その躍進を支えたのは、挿絵の仕事で培った「何が求められているか」を読み解く力。明治37年作の尾竹竹坡《母と子(真心)》はアメリカ・セントルイス万国博覧会の出品作。母が幼子に母乳を与える場面を描いた作品で、欧米人に鑑賞されることを意識し、ラファエロの聖母子像の構図が取り入れられたとの指摘がある。 明治40年(1907)に創設された文部省美術展覧会(文展)では、国観《油断》、竹坡《おとづれ》がそれぞれに二等賞を受賞。弟たちの活躍に刺激を受けた越堂も文展を目指し、大正元年(1912)の文展では三兄弟揃って入選する快挙を成し遂げた。