「平和なときに戦争は準備される」 80年後のいま…「戦後」は「戦前」になったのか【報道特集】
「現地物資を活用し一木一草といえどもこれを戦力化すべし」 「地方官民をして喜んで軍の作戦に寄与し進んで郷土を防衛するごとく指導すべし」 さらに、極秘の印が押された県民指導要綱に示した大方針が「軍官民共生共死の一体化」。 それからの新聞には、「軍官民一体」の文字が目立っていく。徐々に、軍と運命を共にする空気は醸成され、確実に県民のなかに刷り込まれていった。 瀬名波さんは、予科練=海軍飛行予科練習生に進んだ友にあこがれた。 瀬名波榮喜さん 「『若い血潮の予科練の~七つボタンは桜と錨~』この歌を歌って、さあ、あこがれの予科練へ、と手を挙げたのが、羨ましくてしょうがなかったですよ」 さらに、当時の空気を語る。 瀬名波榮喜さん 「戦死者が出た時どうなるか。これも大きな戦意高揚に貢献していると思う。沖縄戦前は戦死者が出ると村葬ですよ。ああいうふうに死にたいなという気持ちを持たせるんですよ、若い連中に。これほど名誉なことはありませんと。もう全部がそういうムードに浸ってるんですね」 ■「どこに行くかもわからない」「戦争だから誰も何と言うこともない」隠された住民の本音 一方で、翁長さんの一家は、葛藤していた。部隊にいる兄から、出征を知らせる手紙が届いたときのことだ。行き先は書かれていなかった。 翁長安子さん 「父親がそれが書けるもんか、しょうがないよ、もうそこまで行ったらお国のために働くしかないさ、と言ったときに、母親はこれを聞いて、泣いてましたよ。どこに行くかもわからない、ここまで育てたのは誰か、と言いたいさ、と母親が言ったんですよ。これ本音だなって思ったんですけど、言えないですよね。母はかわいそうだなと思いました。本音を吐いたなと思いましたけれども、なんか悲しいけれどもその思いが口に出せない、という、昭和19年(1944年)になってからの思いでしたね」 その年の暮れ。司令部は、翁長さんの自宅近くから、南風原町津嘉山の小高い丘に構築した壕に移動していたが、より強固な壕を求め、首里城の地下に移っていった。