「平和なときに戦争は準備される」 80年後のいま…「戦後」は「戦前」になったのか【報道特集】
その価値観に染め上げられた。 瀬名波榮喜さん 「戦陣訓というのがあったんですよ。恥を知る者は強しと、生きて虜囚の辱めを受けず、死して罪禍の汚名を残すことなかれと。心にしみこんでしまうまで叩き込まれる、自ら叩き込んだ」 そして、飛行場建設に駆り出される。のちにアメリカ軍嘉手納基地となる中飛行場だ。 瀬名波榮喜さん 「この地帯は農村地帯で、大豆とかサトウキビとか芋とかの生産地だった。岩山を壊しましてね、それをたたき割って、砕いて滑走路にばらまく」 さらに、いま世界遺産となった座喜味城で陣地の構築に加わった。 瀬名波榮喜さん 「空をついてそびえている松の木を、一本一本なぎ倒しました。それが終わりますと、城壁を破壊する。高射砲の砲台を造るんです」 生活も文化も破壊され、沖縄の風景は変わっていくばかりだった。 32軍が当初、司令部を置いた場所の近くに、翁長安子さん(94)の自宅はあった。当時15歳。自宅周辺に日本兵の姿が日に日に増えていった。 翁長安子さん 「朝6時になったらラッパの音が聞こえたから兵隊さんが行進するんだと。兵隊さんの行動が見えてきたんですね、射的場に行く」 ある日、軍は、軍馬を管理する32軍の獣医を自宅に寝泊まりさせ、医薬品も保管するよう求めてきた。 翁長安子さん 「いいですよ、役に立つならどうぞお使いくださいと言って、もう簡単に、父は。私は、びっくりしてなんで兵隊さんが兵舎でもないのに、ここに寝るの?って」 沖縄戦研究者の石原名誉教授は、2人の体験が表しているのは、日本軍による沖縄全島の軍事要塞化だったと語る。 沖縄国際大学 石原昌家 名誉教授 「32軍が上陸したときには、兵舎とかそんなのを準備できてなかったもんだから、民家に軍隊が同居するかたちをとる。民家だけじゃなく公民館、学校、全部軍事要塞化していく形で、要するに戦場の村化していくわけですね」 その過程で着任したのが、第32軍司令官・牛島満である。沖縄戦開始の7か月前。牛島は、すべての兵団長に、こう訓示した。