【紫式部と藤原道長死後の世界】藤原頼通・藤原教通の争いと外戚関係の喪失─うまく行かなかった2代目の政治─
■藤原道長の期待を背負った2人が外戚構築で争う 長和6年(1017)3月、道長は長男頼通に摂政の地位を譲った。頼通はこの直前、大納言2人・権大納言1人を追い抜いて26歳の若さで内大臣に任じられるなど、異例のスピード昇進を遂げており、頼通が道長の後継者だったのは間違いない。 だが、道長の子息のなかで、頼通と同様に、スピード昇進を遂げていたのが、同母弟の教通である。 公卿の子弟が最初に授けられる位階は従五位下であったが、頼通・教通はそれより2段階上の正五位下の位階を授けられている。その後、教通と頼通の昇進スピードはほぼ同じで、頼通と同じく26歳で内大臣に任じられていたのである。 摂関政治では、摂関は天皇の外戚のなかから任じられた。したがって、摂関は天皇との外戚関係を更新しなければ、摂関を次世代へ世襲させていくことはできなかった。 外戚関係の構築は、皇子の誕生という偶然に左右されたから、そもそも教通の存在は、頼通が外戚関係を構築できない場合の保険という意味合いがあったものと思われる。 そして、現実に頼通は天皇との外戚関係が構築できなかった。頼通は具平親王の皇女である隆姫女王と結婚したが、二人の間には子どもが生まれなかったのである。 長元9年(1036)、後朱雀天皇が即位すると、頼通は養女の嫄子(実父は一条天皇の第一皇子敦康親王)を中宮に立てたが、嫄子は長暦3年(1039)、急死してしまった。 こうしたなかで浮上したのが教通である。教通はこの頃、すでに複数の娘をもうけており、後朱雀天皇は教通と図って彼の娘・生子を入内させようとしたのである。 だが、頼通はこれに怒り、頼通・教通兄弟の関係には亀裂が入った。後朱雀は強引に生子を入内させたが、頼通はこれに対して非協力的な態度を取り、入内後も立后を認めなかった。また、頼通は教通の長男・信家と養子縁組を結んでいたが、この頃から信家の昇進は止まってしまう。 寛徳2年(1045)、後朱雀に代わり後冷泉天皇が即位したが、後冷泉朝でも、頼通と教通の外戚争いは続いた。 永承2年(1047)、教通は三女・歓子を入内させたが、その3年後、頼通は実子寛子を入内させた。そして、頼通は歓子の立后を認めず、寛子のみ立后翌年に立后させて皇后としたのである。 一方で、後冷泉は病弱で歓子・寛子ともに皇子を生むことはなかった。天皇との外戚関係を構築することができないまま、頼通は70歳を越え、病に苦しむようになった。この頃、彼には側室藤原祇子との間に後継者である師実があったが、師実は天皇の外戚ではなく、摂関になる資格がなかった。そこで、治暦4年(1068)、教通に関白の地位を譲与した。 ■外戚関係を持たない後三条天皇が即位 だが、教通が関白になった直後、後冷泉が死去し、弟の皇太子尊仁親王が即位して後三条天皇となった。教通は引き続き関白に再任されたが、後三条の母は三条天皇の皇女禎子内親王であり、ヨソ人である教通の力は大きくなかった。 後三条天皇は、摂関家を外戚としないため、政治的な基盤が弱かったが、そのためかえってさまざまな施策を実行に移した。大江匡房などの学者を取り立てて、大内裏再興を計画し、その財源確保のために荘園整理を実行するなどして、天皇の権力強化に努めていった。 一方、関白となった教通は三男・信長への権力継承を図り、頼通・師実父子と対立した。だが、こうしたなか、後三条は頼通に接近して師実の養女・賢子(実父は隆姫の弟・源師房)を皇太子貞仁の妃に迎えたため、延久4年(1072)、後三条が退位し、貞仁が即位して白河天皇となると、白河は師実を重用した。そして承保2年(1075)に、教通が没すると、師実が後任の関白に任じられ、信長は排除されたのである。 監修・文/樋口健太郎 歴史人2025年1月号『新発見ランキング』より
歴史人編集部