「せがむ娘を抱っこさえできない」闘病で車いす生活をする女性が知った現実と気づいた希望
「原発不明の硬膜外悪性腫瘍がん」で闘病しながらの子育てをする海野優子さん。出産当時はミルクをあげることもできない状況でした。その後、車いす生活になるとさらに小さな不便の連続でしたが、だからこそ気づかされた生き方があるといいます。(全3回中の3回) 【写真】「赤ちゃんの指ってなんて愛らしいんだ」出産直後の海野優子さんと娘のツーショット(全11枚)
■「ミルクさえ自分であげられなかった」 ── 妊娠と同時にステージ4のがんが発覚。産後も闘病生活を送った1年間は、娘さんを乳児院に預け、治療に専念されました。苦渋の選択だったと思います。
海野さん:夫は会社を経営していて多忙だったので、生まれたばかりの子どもをひとりで育てるのは難しいだろうと思っていたんです。どうすればいいのだろうと途方に暮れているときに、乳児院の存在を知りました。当時は、“生きるか死ぬか”の瀬戸際でしたから、ほかに選択肢はありませんでしたし、正直、それどころではなかったというのもあります。ただ、生まれたばかりの子どもと離れ離れになるのは、なによりつらいことでしたね。
── 一番つらかったのは、どんなときだったでしょうか? 海野さん:娘に会えるのは、平日わずか2時間程度。入院している間は会うことすらできません。生後間もないころはまだしも、成長とともにだんだん目で追ったり、反応するような時期になると、私のことをお母さんだと認識していないんですね。“しかたがない”とは思いつつ、やはり胸が苦しかったです。 娘が肺炎にかかったときも、自分の子なのにろくにお世話をしてあげられず、まるでお見舞いにいくような感じになってしまう。娘の成長をそばで見守れず、お母さんとしてすべきこと、やってあげたいことが、なにもできない。「私は母親なのに、なぜミルクをあげることすらできないんだろう」など、育児に関わるひとつひとつのことが、もどかしく感じました。
── お子さんへの思いが、治療に向き合うモチベーションにもなったのでしょうか。 海野さん:すごく大きかったですね。子どもや夫と一緒に家で過ごしたい、母親として娘の世話をしたい、胸に抱いて温もりを伝えたい。そうした気持ちが、つらい治療に立ち向かう原動力にもなりました。治療を始めて1年後、仕事に復帰するタイミングで娘が家に戻ってきて、家族3人で暮らせるようになりました。ですから、そこからが私の本当の子育て。初めてちゃんと“お母さん”になりました。乳児院の皆さんには、本当によくしていただき、感謝の気持ちでいっぱいです。