取引費用理論(TCE)はビジネスの先を見通す「思考の軸」になる
■世界的な取引コストの低下圧力が、企業のあり方を変える 第2の観点は、このように新興市場への進出では高い取引コストに気を配る必要がある一方で、世界的に見れば、全般的には市場の取引コストは間違いなく低下傾向にあることだ。その理由は言うまでもなく、ITの進展にある。 ITにより、現代では様々な市場取引や契約が、国境を跨いで一瞬で行える。数十年前とは隔世の感だ。結果、市場全体での取引コストが大幅に低下し、それが組織(ハイラーキー)の範囲に大きな変革を迫っている、と筆者は理解している。その象徴的な現象を、最後に2つ紹介しよう。 第1に、ボーン・グローバル企業の台頭である。「生まれながら国際企業」と言う意味で、創業間もなく数年内にビジネスの世界展開を行うスタートアップ企業のことだ。いまならウーバーやエアビーアンドビーがその代表だし、日本発ならメルカリやユーザベースがその代表だろう。 スタートアップ企業のボーン・グローバル化は最近の現象だ。四半世紀前までは、企業の国際化とは非常に時間のかかるもので、通常は国内で十数年以上の実績をつくってから、ゆっくり海外に進出するのが常識だった。では、なぜ現代では立ち上がって間もない企業が国際化できるかと言うと、それはITの普及などで世界全体での取引コストが下がり、小さく若い企業でも取引コストを多くはかけずに国際的な市場取引を十分に行えるので、一気に国際化できるからだ。この点については、本書第36章で詳しく解説しているので、そちらをお読みいただきたい。 第2に、巨大なグローバル・コングロマリット企業の解体プレッシャーの高まりである。その代表はGEだ。2017年にジェフリー・イメルトの跡をついで同社CEOに就任したジョン・フラナリーは、その6月にGEの実質上の解体と言う施策を発表した。GEの投資家の要求を受けての背景もあったと言われる(その後、フラナリーが退任したこともあり、2019年時点でGE解体案は宙に浮いたまま燻っている)。 日本でなら、2013年に米ヘッジファンド、サード・ポイントのダニエル・ローブがソニーのエンターテイメント事業の分離上場を提案して話題になったが、これもコングロマリットビジネス解体への圧力といえる。 なぜGEやソニーにコングロマリット解体・事業分離の圧力が強くなったかと言えば、これも世界中で取引コストが低下してきているからだと筆者は理解している。繰り返しだがTCEによれば、企業とは市場取引でコストがかかる部分を内部化した範囲のことだ。逆に言えば、市場の取引コストが下がったなら、内部化の必要がなくなってくるのだ。例えば「ソニーのエンタメ事業はむしろ独立した上場会社になって、ソニーの他事業部門と市場ベースで取引してしまった方が効率がいい」というロジックなのだ(逆に言えば、まだ取引費用が高い新興市場では、財閥内で複数事業を持った方が効率がよい。これがインドネシアなどの新興市場で財閥がまだ強い理由だ)。 もちろん、筆者はフラナリーやローブの真意は知る由もない。しかし、世界的なコングロマリット解体プレッシャーの高まりの背景には、間違いなくこの世界的な取引費用の低下があるはずだ。このように、100年前のGMの生産外注から、現代企業のITアウトソーシング戦略、国際化戦略、新興市場戦略、さらにはボーン・グローバル企業やコングロマリット解体まで、TCEが説明できる応用範囲は極めて広い。企業・組織とは何か、の本質を考える上でもTCEは欠かせない。TCEが我々のビジネスを見通す「思考の軸」としていかに重要か、なぜこれほど経営学で重視されるのか、その理由が理解いただけたのではないだろうか。 【動画で見る入山章栄の『世界標準の経営理論』】 取引費用理論(TCE) ドラッカー経営理論の核心 人にはなぜマネジメントが必要なのか 漫画『BLUE GIANT』に学ぶ起業家養成!「モチベーション3大理論」を気軽に理解 ※1 Oxley,J. E. 1997. “Appropriability Hazards and Governance in Strategic Alliances: A Transaction Cost Approach,” Journal of Law, Economics, and Organization, Vol.13, pp.387-409. ※2)『日本経済新聞』2013年6月12日。
入山 章栄