取引費用理論(TCE)はビジネスの先を見通す「思考の軸」になる
■TCEから見る企業の国際化戦略 第1の観点は、さらなる国際化の進展だ。実は図表5で示した取引ガバナンスの関係は、グローバル経営の研究でもよく応用される。なぜなら、この図はそのまま企業が海外に進出する際の「進出モードの選択」に当てはめられるからだ。 例えば製造業の国際化で考えれば、輸出が図表5の左上に当たる。その一つ右下になるのが、現地パートナーとのライセンシング契約やフランチャイズ契約だ。さらに右下には、現地パートナーとの共同開発や資本を出し合う合弁事業が当てはまる。そしていちばん右下の完全なハイラーキーに対応するのが、現地企業の買収や自社による100%子会社設立での進出となる。 実際、同じ企業でも進出国によって進出モードを変えることはよくある。米ウォルマート・ストアーズは、カナダ、イギリス、ドイツへは現地企業を買収して参入したが、メキシコ、中国、韓国への進出では、現地企業との合弁を選択した。 「最適な海外進出モードの選択」は企業にとって非常に重要な意思決定であり、そして、それは経営学では、まずはTCEで説明されるのだ。グローバル経営論では、このような企業の海外進出のモード選択を説明する理論を、OLIという。本書の第36章で詳しく解説しているので、関心のある方はそちらをご一読いただきたい。 ではTCEから見て、「取引コストが高くなる進出国」はどこだろうか。それは、いわゆる新興市場と呼ばれる国々である可能性が高い。なぜなら新興市場には、司法制度が整っていないところが多いからだ。 繰り返しだが、取引コストとは、契約でとらえ切れない不測の事態が生じる際のコストだった。では実際に不測の事態が起きて、契約・交渉でもめにもめた場合に我々がどうするかといえば、最終的には司直に判断を委ねるしかない。ところが新興市場では、司法システムが十分に機能しているとは限らない。 例えばインドでは、そのリスクが高い可能性がある。同国は訴訟件数の多さと裁判官の不足から、第1審だけでも結審まで5年を超えることが多く、控訴・上告までなされると、裁判期間は20年以上に及ぶこともある。これだけ時間がかかれば、仮に勝訴しても、その裁判費用と人的・時間的な損失は甚大となる。さらに自社が有利なはずの裁判でも、訴訟相手の現地企業が裁判所と強いネットワークを持っていれば、こちらが敗訴する可能性もある。 実際、新興市場ではこのような事例は枚挙にいとまがない。例えば、スイス製薬大手のノバルティスが、自社が開発した抗がん剤「グリベック」の特許権をめぐってインドで7年越しの法廷闘争を行い、結局2013年に最高裁で敗訴するという事態に陥ったことがある。この裁判が不正と言いたいわけではないが、この判決で得をしたのはインド地場企業が多い後発(ジェネリック)薬品メーカーであったことも事実だ(※2)。 このように、新興市場では、司法システムが機能しにくいという意味で、 先進国と比べて取引コストが圧倒的に高くなりうるのである。 日本企業がこれから進出していくのは、軒並み新興市場になるだろう。このような国々では、日本や先進国で想定していた以上に取引コストが上昇し、ホールドアップ問題が深刻化することをあらかじめ想定すべきだ。その対応として優秀な弁護士の確保なども当然重要だが、取引コストを内部化する進出モードの選択など、すなわち図表5の右方向を考える戦略的視点も重要になる。