神宮球場でバイトもしてた“無名学生”がまさかのドラ3指名「ヤクルトの選手になれるとは…」野村克也監督「おい、度会!」運命を変えたノムさんのひと言
叩き込まれた「ID野球」
初めてのキャンプでは、周囲の選手たちのレベルの高さに驚きながらも、紅白戦でいきなりヒットを打つなど必死に食らいついた。最も違いを感じたのは「ID野球」を掲げる野村監督による夜間ミーティングだった。 「チーム宿舎の駐車場にプレハブ小屋があって、練習が終わって夕飯を食べるとそこに集まってミーティングが行われます。人としてどう生きるか、ということから配球、バッティング理論、野球観などありとあらゆることを教えてもらいました。まさに目から鱗、という感じでひたすらメモを取りましたね。ミーティングの後はすぐに夜間練習が始まって駐車場で素振りをしてようやく一日が終わる。プロのキャンプってやっぱりすげえなと感じる毎日でした」
池山、土橋、宮本…黄金期の内野陣
ルーキーながらに奮闘したが、現実は厳しかった。キャンプ終盤に左内転筋肉離れで離脱して二軍行き。そこから4年間、一軍に呼ばれることはなかった。ディフェンディングチャンピオンであるヤクルトの内野陣は、層が厚かった。二遊間には池山や土橋勝征が鎮座し、一塁や三塁には、ジャック・ハウエルやトーマス・オマリーら打力のある外国人選手が座る。度会さんが入団した翌年には、鉄壁の守備力を誇る宮本慎也もプロ入りしてきた。 「一軍の壁は本当に分厚かったです。二軍でいくら3割打っても、そうそう入れ替えなんてない。それでも頑張るしかなかった。とにかく腐らず、毎日汗水垂らしてやっていました。二軍でもポジションが固定されていたわけではなく、昨日はサード、今日はレフトというような感じで色々なところを守りました。でも結果的には、それが自分の野球人生の大きなプラスになったんです」
今も残る「後悔」
当時の出来事で一つだけ、後悔がある。発端は1年目の新人合同自主トレの時に、右肩を痛めたことだった。 「アピールしようと張り切ったんでしょうね。見せてやるぞ、という感じで投げたらブチッという音がして激痛が走りました。でもその時は少しの痛みで練習を休むような時代ではなかったですから、誰にも言わずに隠していました」 1年目のフレッシュオールスターで3打数3安打と活躍し、一軍昇格の話が出た頃、その右肩痛が再発した。ついにはボールも投げられない状態となり、昇格は見送られた。 「あそこでもし一軍で1打席でも立てていたら……。その悔しさはいつまでも残っていました。結局右肩の痛みは現役を終える時まで消えませんでした」
【関連記事】
- 【後編を読む】「お前、トレードって出てるぞ」“度会トレード”報道に先輩選手が猛抗議…ヤクルト名物「日本一のムードメーカー」DeNA度会隆輝の父の“愛され伝説”
- 【秘蔵写真】「目元がソックリ!」DeNA度会隆輝の父・博文さんが息子と同じ二十代だった頃の青春フォトを見る…黄金期ヤクルトの懐かし写真も一気に
- 【読まれています】清原和博から電話「来年は次男が入学します」清原正吾の野球引退“その後”…慶大の恩師・親友が語る進路「アナウンサーより俳優がよさそう(笑)」
- 【あわせて読む】野村克也監督「死球くらいでガタガタ言うな!」野村ヤクルトと長嶋巨人が“大乱闘”…ノムさんに狙われた巨人落合博満40歳「落合は何を考えとるんや」
- ヤクルト野村克也監督に批判殺到「なぜ落合が外されるんだ?」巨人・落合博満40歳“まさかの落選事件”「野村監督は落合が嫌いなようだ」