【コラム】“ヘタレティコ”から“誇らしきアトレティコ”へ!シメオネと一試合ずつ積み重ねた13年間…今季、最強布陣でラ・リーガ制覇に挑む
頂上決戦バルセロナ戦直前、アトレティコ番記者が思いを綴る
文=ハビ・ゴマラ(Javi Gomara)/ スペイン紙『ムンド・デポルティボ』アトレティコ・デ・マドリー番 企画・翻訳・構成= 江間慎一郎 2011年12月21日、アトレティコがあまりにもアトレティコ過ぎて、私は記者であることを忘れて泣いてしまいそうだった。 スペイン首都に拠を構えるアトレティコ・デ・マドリーは、その当時からレアル・マドリー、バルセロナの二強に次ぐ絶大な人気を誇っていた。が、とにかく浮き沈みが激しいクラブだった。 1987年から2003年までの16年間で38人もの監督を取っ替え引っ替えした会長、故ヘスス・ヒルの影響が大きかったが、1994-95シーズンにリーガを14位で終えたと思ったら、次シーズンにはリーガ&コパ・デル・レイの二冠を達成。だがその後5位、7位、13位と順位を落としていき、1999-00シーズンには19位で史上初の2部降格。それから2年かけて1部復帰を果たした後も、不安定ぶりは変わらなかった。 あの13年前の年末もそうだったのだ。1部復帰後、チャンピオンズリーグ(CL)出場権獲得やヨーロッパリーグ優勝を果たすなど、サポーターに喜びも与えてきたアトレティコだったが、あのときリーガでは降格圏に近づき、コパでは3部所属のアルバセテ相手に敗退するという大失態を演じている。あの12月21日の夜、私はアトレティコの番記者としてではなく、子供の頃からのサポーターとして悲しみに打ちひしがれていた。両目から涙がこぼれないようにしながら、当時のアトレティコ本拠地ビセンテ・カルデロンを後にしたのだった。 アトレティコ首脳陣(ヘスス・ヒルの右腕だったエンリケ・セレソが会長、息子のヒル・マリンがCEO)はサポーターの悲しみ、そして怒りを受けて、22日には当時の監督グレゴリオ・マンサーノを解任。その翌日、新監督としてディエゴ・パブロ・シメオネの招聘を発表している。