<夢への軌跡~22年センバツ丹生~>/上 「あと一歩」教え子が実現 /福井
越前町内郡の小高い丘を登ると姿を見せる丹生高校の白い校舎。晴れた日には人口約2万人の小さな町ののどかな風景が広がる。冬には雪化粧をすることも珍しくないグラウンドで、選手たちに待ちわびた「春」が訪れた。21世紀枠の1校として、春夏を通して初の甲子園出場を決めた同校の足跡を連載でたどる。 ◇ ◇ 1949年に誕生した硬式野球部の歴史をひもとくと、昭和の終わりにも甲子園まであと一歩のところに到達していた。その時に監督を務めたのが、五島巌さん(80)だ。 五島さんは丸岡高野球部で監督を務めるなどし、1979年に丹生の監督に就任。同校は当時から地元中学出身者の進学先だったが、有力な選手の多くは福井工大福井や北陸といった県内の有力校に進学。丹生に集まるのは「経験は浅いが、硬式野球を頑張りたい」(五島さん)という熱意のある生徒が多かった。 五島さんが心がけたのは、自分が率先して必死な姿勢を生徒たちに見せること。守備練習では自分が打撃役を買って出て、一人で100本ノックをするなどし、選手らのやる気をさらに引き出した。また、校舎が小高い丘の上にあるという地の利を生かして、学校近くの坂道を使った走り込みなどを徹底し基礎体力も強化。その中で打力など選手の秀でた部分をいち早く見極め、チーム作りに生かしていった。五島さんの監督時代に指導を受け、現在は同町立織田中学校で校長を務める川上一規さん(57)は「五島監督は常に子ども主体の考え方をする人で、個々の選手をよく観察し強みを引き出すのに熱心な人だった」と振り返った。 88年秋にはその成果が最も現れ、北信越地区大会でベスト4に進出した。準決勝で福井商に敗れ、21世紀枠がまだなかった翌年春のセンバツ出場をあと一歩で逃した。五島さんはこの時以外にも県大会で2度、チームを決勝に導くなど、選手の力を最大限に生かす指導を続けた。退任後の2007年には日本高野連などが高校野球の発展に20年以上貢献した指導者に贈る「育成功労賞」を受賞した。 惜しくも在任期間中の甲子園出場はかなわなかった五島さん。しかし、今チームの春木竜一監督は教え子で、選手の中には教え子の息子がいる。「今チームが自分の人生の夢をかなえてくれ、感無量だ。地域も大いに盛り上がってくれるだろう」と喜びをかみしめていた。【大原翔】