道長記した「御堂関白記」が“世界に誇れる”凄い訳。道長自身は後世に残すつもりはなかったが国宝に。
その儀式の際、顕光は、天皇の御前の食膳を取ろうとして、それを打ち壊すという粗相をしてしまうのです。 これには、道長も「無心」(分別がない)と日記に、呆れとも、怒りともとれる想いを記しています。 ■呆れた感情も日記に残す 1012年には、大臣以外の官を任ずる朝廷の儀式(除目)に遅刻することもあった顕光。普通ならば「すみませんでした」と謝ることでしょうが、顕光は違いました。 「これまでにも、大臣の遅刻の際はこのようなものだった」「花山天皇のときの源雅信と藤原為光の例を自分は見たのだ」と、儀式に遅刻したことを、「先例」らしきものを持ち出して、正当化しようとしたのです。
道長はそのような先例はないとして、顕光のことを「目の前の非難を避けるために、ないことでも作る人だ。時々、このようなことを言う人だ」とまたまた呆れて日記に書いています。 ちなみに、顕光は何でもかんでもやりたがるところもあったようです。1016年1月、顕光は、逢坂・鈴鹿・不破の3関を固め警備体制を敷く「固関・警固の儀」の担当者になりたいと願い出て、許されます。しかし、またもや、儀式の進行でミスを連発しました。
これを見た道長は「無理矢理に上卿(儀式を担当する公卿)を務め、多くの失態をして、ほかの公卿に笑われるとは。大馬鹿の中の大馬鹿だ」と顕光を罵倒したとされます。このエピソードは小右記に書かれている話です。 道長は陰でコソコソと人の悪口を言うのではなく、本人の前でもしっかり叱っていたようです。そうした意味で、サッパリした性格だったのではないでしょうか。 (主要参考・引用文献一覧) ・清水好子『紫式部』(岩波書店、1973)
・今井源衛『紫式部』(吉川弘文館、1985) ・朧谷寿『藤原道長』(ミネルヴァ書房、2007) ・紫式部著、山本淳子翻訳『紫式部日記』(角川学芸出版、2010) ・倉本一宏『藤原道長の日常生活』(講談社、2013) ・倉本一宏『藤原道長「御堂関白記」を読む』(講談社、2013) ・倉本一宏『紫式部と藤原道長』(講談社、2023)
濱田 浩一郎 :歴史学者、作家、評論家