道長記した「御堂関白記」が“世界に誇れる”凄い訳。道長自身は後世に残すつもりはなかったが国宝に。
先例(以前からの慣例)通りに儀式などを進めることが、朝廷ではよしとされてきたのです。家柄により、朝廷での地位が決まりますし、その地位によって担当できる儀式(仕事)も異なります。 そのため、貴族のなかには、自分の子孫のために日記をつけていました。子孫がスムーズに仕事ができるようにするためです(例えば、平安時代中期の公卿・藤原師輔は、日記をつけておくことを子孫に言い残しています)。 しかし、道長はそうではなく、備忘録として日記をつけていたのでした。ここが『小右記』(藤原実資の日記)や『権記』(藤原行成の日記)と、道長の日記の大きな違いでした。
道長は自分の日記を後世に残すつもりはありませんでしたが、その願いはかないませんでした。意図に反して、摂関家の最高宝物として、現代に至るまで、大切に保存されてきたのです。時の摂政・関白でも簡単に見れるものではなかったようです。 ■道長の自筆本が残っている そして道長の孫・師実の時に、1年分を1巻とする写本16巻が成立しています。 『御堂関白記』の凄いところは、古写本だけでなく、道長の自筆本が残っていることです。
あまり知られていませんが、これは日本最古、いや世界最古の自筆日記なのです。欧州にも朝鮮にも中国にも、これほど古い時代の日記は今に残っていません(ちなみに『小右記』は平安末頃の写本、『権記』は鎌倉期の写本があります)。 自筆日記がそのまま残っているのですから、なかには、誤記や抹消、書き換えなどもあります。しかし、そこから道長の精神を垣間見ることもできるのですから、自筆本『御堂関白記』の貴重さと魅力は大きいと言えるでしょう。
日記から書いた人の性格がわかることもあります。では、道長はどのような人だったのでしょうか。日記からは、道長は感情を露わにすることが多かったことがわかります。その感情の1つは怒りです。 藤原顕光(関白・藤原兼通の嫡男)は家柄はよかったのですが、無能の大臣として有名でした。自分勝手に儀式や仕事を進めようとしたり、他人の忠告も聞かず、人々からも軽蔑されていました。 そんな中、1010年1月に敦良親王(一条天皇の第3皇子。母は道長の娘・彰子)の、誕生50日目のお祝いが行われます(五十日の祝)。