海外に出る前に知っておきたい「日本のキホン」─「生きがいって何ですか?」
「生きがい」という言葉が、近年ますます世界で注目されています。この日本の価値観について海外の人から質問されたとき、わかりやすく説明できるようにしておきたいものです。脳科学者で『IKIGAI』の著者である茂木健一郎先生が解説します。 【画像】「生きがい」とはとても私的なもの 失われた30年のなか、経済がすっかり停滞しているように見える日本。日本人は自信を失っていますが、その一方で、日本の文化に対する世界の注目は高まっています。アニメや漫画、日本の食、武道、サムライやニンジャといった日本の象徴に対する海外からの熱視線は高まるばかりです。日本文化への関心という視点からみれば、むしろ日本は文字通り「日の昇る国」になりつつあるのです。 せっかく注目されているのに、肝心の日本人が自分のことを知らないのはもったいないといえます。とりわけ、海外に留学したり、仕事で駐在したりする前には、日本に関心を持つ人たちに日本のことをある程度説明できるようにしておきたいところです。
IKIGAIを支える5つの柱
日本をめぐっていまブームとなっている言葉の一つが、IKIGAIです。「生きがい」、つまりは生きる意味や目的、喜びを表す日本語が、IKIGAIとしてそのまま通用するほど定着しはじめているのです。 手前味噌になりますが、私が2017年にロンドンの出版社から出した英語の本『IKIGAI─日本人だけの長く幸せな人生を送る秘訣』が、今日(こんにち)の世界的なIKIGAIブームに一役買いました。これまで35ヵ国、29以上の言語で翻訳出版されています。 とりわけドイツでは2024年になってから、ノンフィクション部門でベストセラー1位を累計32週獲得し、同国を代表する刑事ドラマ(日本でいえば『相棒』のような存在だと聞きます)でもフィーチャーされるなど、「社会現象」になっているのです。ドラマのなかでは、犯人が、私のIKIGAIの本を引き合いに出して、人生を反省するというきっかけとして使われているようです。 なぜ、ドイツをはじめとして各国でIKIGAIがブームになっているのでしょうか? もともと、日本は世界的に健康長寿の国として知られていて、IKIGAIがその秘密として注目されていました。東北地方における大規模研究では、生きがいを持っている人は、持っていない人に比べて、とりわけ心臓血管系の疾患が少なくなり、結果として健康長寿になるという統計的な傾向が報告されています。 このような健康上の効果に加えて、近年の世界情勢が影響を与えている可能性があります。ドイツから私を訪問したある研究者の女性は、日本に比べて労働生産性が高いとされる同国で、むしろ燃え尽き症候群(バーンアウト)に悩む働き手が多いのだと説明してくれました。経済のグローバル化や、人工知能の発展など、私たちが働く環境が激変するなかで、仕事にストレスを感じる人が増え、そのような人たちがIKIGAIに救いを見出しているというのです。 彼女を含む何人かで東京の居酒屋に行ったときのことが忘れられません。金曜日で、店内は混んでいました。会社の同僚たちがリラックスして懇親している、日本人としては見慣れた光景でした。「あの人たちは何をしているのか」と質問されたので「彼らにとって、仕事のあとの一杯が小さな楽しみ、つまりIKIGAIなのだ」と説明すると、彼女は、「信じられない。ドイツでは、会社の同僚は昇進をめぐる競争相手で、上司の愚痴を口にしたり、自分の悩みを打ち明けたりすることは考えられない」と驚いていました。 IKIGAIのユニークな点は、それがとても私的なものだということです。たとえば朝、一杯のコーヒーを淹れてゆったりと味わうとか、愛犬を散歩につれていくとか、そのようなことがIKIGAIになり得るのです。グローバル化する経済のもとでの競争とは、関係がありません。日本には、ドイツの研究者が驚くようなIKIGAIの文化があります。 私自身の生きがいは、たとえばランニングすることや(フルマラソンの大会にも何度も出ています!)、子供の頃からの趣味で、蝶が飛ぶのを見ることです。「ブルームバーグ」のテレビ番組が日本に取材にきて、英国の数学者ハンナ・フライさんにインタビューされた際にも、「蝶を見る瞬間(バタフライ・モーメント)が私の生きがいだ」という私の発言にフライさんが喜んでいました。 科学者や作家、ブロードキャスターとしての私の職業に、ランニングやバタフライ・モーメントは直接関係しません。しかし、IKIGAIとしてはとても重要です。そして、世界中の人たちが、自分の仕事、そしてライフスタイルにおけるバランス回復のために、IKIGAIを必要としているのです。 私は自著で、5つの柱を挙げました。「小さく始めること」「自分からの解放」「調和と持続可能性」「小さな喜び」「いま、ここにいること」です。これらの考え方は、仕事だけでなく、生活全般において重要です。そして、これらの柱は、私が長年にわたる脳科学の研究において、またそのほかの取材や対談においてつかんできたことの「集大成」でした。 たとえば、どんなに大きな目標も、最初の一歩は「小さく始めること」。これは、オバマ大統領も訪れた日本を代表する寿司店「すきやばし次郎」の小野二郎さんの生き方にインスパイアされたものです。また、「いま、ここにいること」は、取材で訪れた永平寺の僧侶たちの修行の様子からヒントをいただきました。私にとって、IKIGAIの本は、日本人として生きてきた時間のなかで学んできたこと、気づいてきたことをまとめたものだともいえます。 執筆の際、参考資料は一切目にしませんでした。有名な神谷美恵子さんの本『生きがいについて』さえ、実はいまだに読んだことがありません。科学者として特定の資料に依拠することよりも、いままで生きてきたなかで得たさまざまな「データ」を自分のなかで総合することを選択した結果です。そのようにして良かったと思っています。