警察庁長官銃撃犯を追った“極左ハンター”未曾有のテロ「地下鉄サリン事件」の10日後に轟いた4発の銃声
オウム真理教による地下鉄サリン事件から10日後の1995年3月30日、国松孝次警察庁長官が銃撃され瀕死の重傷を負った事件は、2010年に未解決のまま時効を迎えた。 【画像】選挙出馬に空中浮遊も…“奇妙な”教団と見られていたが 時効成立時の警視庁公安一課・栢木國廣(かやき・くにひろ)課長は発生当初から長官銃撃事件捜査の最前線に投入されていた。 事件発生から間もなく30年。 入手した数千ページにも及ぶ膨大な捜査資料と15年以上に及ぶ関係者への取材を通じ、「長官銃撃事件とは何だったのか」を連載で描く。
耳目を集めた奇妙な教団
バブル崩壊と共に徐々に表面化していったオウム真理教の問題。当時、ニュースはこの話題で持ちきりだった。 仕事も家族も捨て出家信者となった人の家族が、家族を奪われたとして被害を訴え、奇妙な教団運営が世間の耳目を集め、社会問題化していった。 教団は宗教団体であることを隠れ蓑に、教祖・麻原彰晃の指示で武装化をはかり、教団の問題を指摘する人々を排除するため凶暴化の一途を辿る。
地下鉄サリン事件発生
1989年11月、オウム被害対策弁護団に所属する坂本堤弁護士一家が殺害された。 この事件を皮切りに、1994年6月には長野県松本市に建設しようとしていた教団施設をめぐり住民の反対運動がおき、教団に不利な判決が出ると見るや、裁判官を敵対視し裁判所職員住宅付近にサリンを撒いた松本サリン事件(8人殺害、約140人重軽傷)をおこす。 1995年元旦には、読売新聞が山梨県上九一色村にあるオウム真理教の施設周辺の土壌からサリン成分が検出されたと報じた。教団に疑惑の目がますます向けられていった。 1995年2月には、女性信者の全財産を狙い、逃げた女性の居場所を突き止めるため、兄で目黒公証役場事務長だった男性から居場所を聞き出そうと拉致監禁し、死亡させる事件もおこす。 次々に凶悪事件を引きおこしていくにつれ、教祖・麻原彰晃は、警察の捜査が及ぶことを日増しに恐れるようになった。 麻原は、日本の機能そのものを麻痺させようと企て、幹部信者5人に指示し、1995年3月20日に東京都心を走る朝の地下鉄の3つの路線、5つの車両内でサリンを同時多発的に撒いた。 この地下鉄サリン事件(13人殺害 5800人以上重軽傷)に、いよいよ日本中が震撼することとなった。 駅という駅からゴミ箱が撤去され、制服警察官がホームに立って厳戒態勢が敷かれた。サリンが空から大量に散布されるXデーが来るとのデマも飛び交うなど、社会不安を大いに生んだ。 警視庁は、3月22日に目黒公証役場事務長の拉致監禁致死事件を突破口に家宅捜索を行う予定だった。 しかしオウムは直前の3月20日に地下鉄サリン事件をおこし、日本警察の機先を制したのである。 大混乱の中、警視庁などは3月22日、山梨県上九一色村の施設をはじめ全国にある教団施設への強制捜査に踏み切った。 そのわずか8日後に、今度は捜査の陣頭指揮を執る全国警察のトップである警察庁長官が銃撃されるのである。 治安情勢が混迷する最中、治安維持機関のトップが銃撃されたことで、世間に与えた衝撃は計り知れないものがあった。