警察庁長官銃撃犯を追った“極左ハンター”未曾有のテロ「地下鉄サリン事件」の10日後に轟いた4発の銃声
鳴り響いた4発の銃声
1995年3月30日は冷たい小雨まじりの朝だった。 午前8時20分過ぎ、警察庁長官の秘書官は、荒川区南千住にある国松孝次長官の自宅に長官車で到着。10メートル先には、所轄署である南千住警察署の長官警戒車が待機していた。 すると警戒車から警戒員と南千住署警備課の係長が、佐藤警備課長から渡されたビラを持って長官車の秘書官のところにやって来て、「昨日アクロシティで配られたオウム真理教のビラです」と渡してきた。 秘書官はそれをもって傘を差し長官車を出て、長官宅のあるアクロシティEポート6階に向かった。 午前8時30分。 インターフォンを押し「お迎えにあがりました」と長官の妻に告げると、1階までエレベーターで秘書官が降り、通用口付近で待機する。すぐに国松長官は降りてきた。 秘書官が長官に傘を差し、相合傘のかっこうで2人は通用口から出た。 通用口から出たのは偶然だった。これまでは正面のエントランスを使っており、通用口からは一度も出たことがなかった。 2人は植え込み沿いを長官車の方向へ歩いていく。 「ドーン」という音が轟いたのはその時だった。 背中に弾を受けた衝撃で長官は数歩よろめき前のめりに崩れた。 「大丈夫ですか!?」と秘書官は叫んだ。 さらに「ドーン」という2発目が鳴り、弾丸が長官の両太ももを貫通する。うつぶせになった長官に秘書官は左後ろから覆いかぶさった。 そして長官の頭の方に回り込み、うつぶせの形で倒れている長官の体を仰向けにして、スーツの襟とズボンのベルトを引っ張り、植え込みスペースを囲う壁の影に隠そうと引きずった。 その際に3発目の銃声が響いた。弾丸は長官の下半身に命中。 秘書官が長官を引きずり植え込みの囲いの影に隠したところで、4発目の銃声が聞こえた。
“調五”の栢木係長
「国松長官が銃で撃たれた。長官に傘を差していた秘書官は無事らしい」 96年3月30日の朝8時半過ぎ、世紀の大事件発生で警察庁警備局外事課でも大騒ぎになっていた。 外事課は本来、北朝鮮や中国、中東など海外の情勢について担当しているセクションだ。だがこの日だけは状況が全く違った。 課員はテレビに釘付けになりながら、ひっきりなしに鳴る電話の受話器を耳に当てている。 栢木(かやき)もこの喧噪の中にいたが、この日はどこか上の空だった。 3年半に及んだ警察庁外事課への出向を終え、来週から古巣の警視庁公安第一課に戻ることになっていたからだ。国の機関での勤務最後の日に、この事件は起きた。 栢木が戻る先の公安一課が主体となって、刑事部捜査一課と合同でこの事件を捜査することになっていたが、栢木は来週から始まる警視庁での勤務の準備のために早く家に帰ることを考えていた。 その後の自身の運命が間もなく決まるとは露ほども思っていなかったのである。 週が明けた月曜日の4月2日、久しぶりに正面玄関から警視庁に入った栢木は新鮮な気分だった。 主に極左暴力集団などの活動実態の監視と取り締まりにあたる公安一課には、警部係長が15名弱いる。自分はどの係を担当することになるだろうかとばかり考えていた。 庁舎内の売店に入ると、「よう」と後ろから見知った公安一課の係長が呼び止めてきた。「栢木、お前は南千住の特捜本部に行くらしいぞ」と言うではないか。 「嘘だろ?」と言って固まった栢木の顔を尻目に、ニヤケ顔の同僚は去って行った。 いきなり長官銃撃事件のような重要事件の特捜本部に叩きこまれるのか?そんな訳はない。人の人事だからって適当なことをぬかしやがって。 怒りがこみあげてくるのを抑えながら、午前9時に警視庁14階にある公安第一課を訪ねた。すぐに課長室にて岩田課長に着任の申告を行った。 申告とは「警視庁警部、栢木國廣は公安第一課係長を命ぜられました」と課長に挨拶することである。 岩田は父親も警視庁の名鑑識課長と謳われた刑事だ。親子2代にわたる警視庁エリートである。珍しく酒をやらず温厚で愚直な人格者だった。