<熊本地震>小学校避難所の「河原方式」が示す実践、そして残す教訓
16日から計10日間、過去にない大地震に見舞われた熊本県に入り、うち8日間は西原村の河原小学校避難所で密着取材をさせてもらった。この避難所では、避難直後から住民自らが救護、調理、配食などの役割分担を担った結果、運営が非常にスムーズに行われ、一定の理想的な避難所を実現させたと言える。誰もが大きな自然災害に見舞われる懸念を抱くようになったいま、避難所づくりの参考となる一例として改めて紹介したい。
活かす経験、広がる自主性
取り組みは、「うちは待つだけの避難所では、なか」という避難所総括の堀田直孝さんの一言に集約されていると思う。言葉通り、村を襲った16日未明の本震直後から住民たちは自ら動いた。 堀田さんは村職員であり、元消防団員。以前、地区は大水害に襲われたこともあり、防災訓練をするたびに、「もし大災害が発生したら、まずは避難した住民で組織を作ることが必要」と常々、考えていたという。 住民が次々に集まり始めたのを見て、看護師や元自衛隊員など、それぞれの「得意分野」で役割を決めた。例えば、調理担当の中核になったのは、約40年間、小学校の給食を調理してきた65歳の女性2人。発生日から1週間、救援物資が届かなかったときも、毎日3食、避難住民らが壊れた自宅から持ち寄った米や芋、野菜、味噌などで数百人分の食事を作り続けた。 救護、配食……。避難当初は、担当の限られた住民ばかりが動いていたが、次第にその自主性は、ほかの避難者にじわじわと広がっていった。ある高齢女性は、体育館の玄関の靴をそろえ、ほうきで掃くようになった。中学生たちは一日中、退屈する幼児たちの世話をするように。体育館の床掃除では、応援に入った他県の行政職員に混じって、元気なお年寄りが雑巾を握っている。 体が不自由なお年寄りは、会う人ごとに「お疲れさま」「いつもありがとう」などと声をかける。 それぞれが役割を見つけるにつれ、笑顔が増えてきた。恐怖、そして将来への不安と、ともすれば自分は不幸だという感情に押しつぶされそうになったとき、自分の居場所を見つけることが、まずは、小さな生きがいとなるのだと思った。