右手のやけどと特製バット、「神様」の涙 4歳でトラックにぶつかりたき火に飛び込む 話の肖像画 元プロ野球選手・張本勲<3>
《被爆という〝死〟への恐怖を味わう前年、昭和19年にも生死の境をさまよった》 右手のやけどです。右手は私の利き手です。4歳の冬。あのころ、戦時中だったし、食べ物がない時代でした。だから近くの山に行って芋なんかを掘りに行く。手に入れて家の近くの土手辺りでドラム缶でたき火をする。その中に芋を5、6個入れるんです。友達と焼き上がるのを待っているわけですよ。それが楽しみでした。 たき火の周りでみんなでワイワイやっていたら、突然三輪トラックがバックしてきた。昔はバックミラーもなかったらしい。(トラックが)私の左肩にぶつかってね。そのはずみで右手を中心に、体ごとたき火の中に飛び込んでしまった。たまたま通りかかったおじさんが、体をぎゅっと持って、引っ張り上げてくれたらしいんです。 後で聞いたら体の全部が火の中に入っていたという。そのままだったら3分、5分で焼け死んでいたでしょう。何せ起き上がれないんだから…。駆け付けた母(順分(スンブン)さん)は、半狂乱で大泣きしながらも病院に連れて行ってくれたそうです。右手が焼けた。いまはだいぶ取れていますが、胸とか背中とかにも、やけどの痕があります。 右手は小指と薬指がほとんどない。しかも内側に曲がっている。小学4年の夏休みです。手のひらに癒着した指を切り開いてはがし、肉がそがれた部分にももの肉を移植する手術をしました。2カ月ほど固定しましたが、外すと元に戻ってしまう。効果はほとんどなかった。残り3本の指で棒切れを、ちょっとつかめるような状態ですね。そんなハンディを抱えながら野球をしてきたんです。 《考案した特製バット》 だから私のバットは、みんなが使っている物とは違う。グリップエンド(バットの一番下の部分)の形状が違う、特別なバットを作ったんです。グリップエンドを削って薄くし、(わずかに残っている)小指を引っ掛けられるように工夫した。そしてグリップエンドいっぱいに握っていた。バットを振っても指を引っ掛けているから、普通にスイングできる。特製バットですね。これでバッティングができました。 《〝打撃の神様〟川上哲治さんの涙…》
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