【実録 竜戦士たちの10・8】(28)1億円プレーヤー増加、契約更改に吹いた“FA景気”の風…反面、逆風を受けたベテランも
◇長期連載【第1章 FA元年、激動のオフ】 巨人が臨時株主総会と役員会を開き、長嶋茂雄監督の常務取締役編成担当兼務を決めた1993年12月8日。巨人との初交渉を翌日に控えた落合博満は新曲「夜明川(よあけがわ)」のレコーディングのため、東京・赤坂の日本コロムビアにいた。 約30人の報道陣に「きょうは野球のことはしゃべらないよ」とくぎを刺したものの、レコーディングを終えると「3番の歌詞が、今の心境にピッタリだと思ったよ」とニヤリ。落合が含みを持たせた3番の歌詞には「男の旅路 この夢はいずこで…」とあった。 翌9日。落合40歳の誕生日に巨人との初交渉が都内の「全日空ホテル」で行われた。注目度の高さは約200人の取材陣にも表れていた。巨人からは球団代表の保科昭彦、編成部長の倉田誠が出席し、交渉に当たった。 「きょうは聞き役に徹していた。巨人の誠意が伝わってきた」と落合が言えば、保科も「良い感触を得ました」と笑顔。巨人からは年俸4億円の条件提示がなされた。 4日前、落合がテレビで話したようにダイエーも参戦なら、その交渉待ちとなるところだが、「20日前後に巨人入りが決まるのでは…」というのが巨人担当記者たちの見方だった。 というのも、長嶋が16日からの「名球会」のハワイ旅行をキャンセルしたとの情報が入っていたためだ。「名球会」の旅行中に落合の入団発表があり、長嶋が同席するというのが「20日前後」説の根拠となっていた。 落合が巨人との初交渉に臨んだこの日、横浜では駒田徳広が正式契約をすませ、「横浜に骨を埋めたい」と“生涯横浜”を宣言した。
この年の契約更改では落合の4億円を筆頭に12球団で30人の選手(外国人除く)が1億円以上の契約を結んでいる。そのうち、新たに1億円プレーヤーの仲間入りを果たしたのは駒田らFA宣言選手4人を含む13人。 明らかに“FA景気”の風が吹いたものだが、その半面、1億円選手10人を抱える西武を自由契約となった平野謙(ロッテ移籍)、横浜から戦力外通告を受けた屋鋪要(巨人移籍)、高木豊(日本ハム移籍)のように逆風を受けたベテランもいた。 日本プロ野球選手会会長として、FA制導入に尽力した岡田彰布もその一人。阪神を自由契約となり、ようやくオリックスと契約を結んだのは翌年のキャンプイン直前のことだった。 =敬称略
中日スポーツ