鬼子母神が人を食らう悪鬼から神に転じた、その訳とは?
安産や子育ての神として祀られることの多い鬼子母神(きしもじん)。子を見守る優しげな神かと思いきや、元は多くの子供を養うために、人を殺して食らうというおぞましい鬼であった。悪鬼が転じて神に。その経緯とは一体どのようなものだったのだろうか? 元は子育てのために人肉を食らっていたおぞましい鬼 鬼子母神といえば、子授けや安産、子育ての神としてその名を知られる歴とした神さまである。赤子を抱いた柔和な母親の姿で、優しげな眼差し…とイメージされることが多いようである。しかし、中には鬼のような形相で、口が裂けたり、ツノまで生えている像まであるというから、驚かされてしまう。そういえば、読んで字のごとく、名前の最初に「鬼」がつく。このことからわかるように、元は鬼であり、改心して神さまになったという。鬼から神へ、その経緯を探ってみることにしよう。 もともと、古代インド神話に登場する悪鬼で、元の名は可梨帝母(ハーリーティ)。王舎城(おうしゃじょう)の夜叉(やしゃ)神の娘で、八大夜叉大将の一人である散支夜叉(パンチカ)の妻であった。夜叉といえば、鬼神の総称。阿修羅と言われることもある他、金剛力士の元の姿であったということをも合わせて鑑みれば、とても恐ろしい存在であったことが想像できそうだ。 この娘がパンチカと結婚した後、五百人あるいは千人ともいわれるほど多くの子供を産んだというから恐れ入る。当然のことながら、これだけの子を自らのお乳で育てるとなると、想像を絶するほどの栄養が必要であるに違いない。ならばいっそのこと、人間を捕まえて食べるのが手っ取り早い!と思ったかどうかはともかく、多くの人を殺して食べたという、悪鬼の権現のような存在だったのだ。人々から恐れられていたことはいうまでもない。 これを危惧したのがお釈迦さまである。ここは一つ、懲らしめてやろうと、彼女の末子である嬪加羅(ピンガラ)を托鉢(たくはつ)に使う鉢の中に隠してしまったのだ。7日間にわたって世界中を探し回るも見つからず、半狂乱になってしまった彼女。頃合い良しとばかりに、お釈迦さまが優しく語りかけた。「多くの子を持ちながらも、ただ一人の子を失うだけで嘆き悲しむお前、子を失う親の苦しみをわかったであろう」と。これには流石に応えたのか、涙ながらに頷く彼女。自らの罪を悔い、三法に帰依したことで、隠していた子も無事元に戻った…という、ありがたい仏教説話なのだ。 そして、人肉を食べないことを約束する代わりとして差し出しだされたのが吉祥果(ザクロの実)であったことから、吉祥果を手にする姿が描かれるようになったともいわれている。 名前も鬼子母神と改め、仏教の守護神に転じたようである。 以降、大乗仏教の初期に成立したとされる法華経の信者の擁護や、布教を妨げる者を処罰する役割を、十柱の鬼神である十羅刹女(じゅうらせつにょ)とともに与えられたというから、優しいばかりの神様ではないのだ。「全ての人間がもれなく救済される」と言いながらも、信じるものには優しいが、そうでないものには制裁を加えるという、恐ろしい神さまでもあったのだ。 「恐れ入谷の鬼子母神」とは? この神様が祀られているのが、大田南畝(おおたなんぽ)の「恐れ入谷の鬼子母神」の地口(じぐち。しゃれ言葉の一種で、この場合には「恐れ入りました」の意で用いられる)で知られる入谷の真源寺。万治2(1659)年に日融が法華宗本門流の寺院を開山したのが始まりで、7月の七夕の頃に催される朝顔市でも知られる名刹である。江戸時代中期のこと、とある大名家の奥女中が腫れ物で困っていたところ、入谷の鬼子母神にご利益があると聞きつけて、お参りにやってきたのだという。21日目の願掛け最後の日、どういうわけか境内でつまずいてしまった。と、その刹那、ぽろっと腫れ物が破れて膿が出て完治したのだとか。この話を聞きつけた狂歌師・大田南畝(蜀山人、御家人でもあった)が、そのご利益に恐れ入ったというところから、前述の地口が口をついで出たというのだ。 また、雑司ヶ谷(ぞうしがや)にある法明寺の鬼子母神堂(飛地境内にある)はさらに歴史が古く、永禄3(1561)年に、目白台あたりで掘り出された鬼子母神像を、星の井と呼ばれる三角井戸で清めて祀ったのが始まりとか。ここでは、鬼子母神の「鬼」の字に、ツノにあたる点が記されていないのが特徴的。「もはや鬼ではない」ことを言い表したもののようである。 さらに、千葉県市川市にある法華経寺も、江戸三大鬼子母神の一つとして知られている。こちらはもっと古く、創建は文応元(1260)年。日蓮の弟子・日常が創建したというお寺で、日蓮が記した『立正安国論』(国宝)が記された所としてもよく知られるところだ。 ともあれ、これらの由来を知ってか知らでか、祈願に訪れた人々は皆、お札をありがたく頂戴していく。信じる者に理屈など不要。鬼さえ改心すれば神となり、私たちを救ってくれるのだ…と、信じるだけでもいいのかもしれない。
藤井勝彦