幕末日本には、海外から讃えられる「凄腕の外交官」がいた…その男の「命をかけた」圧倒的な覚悟
交渉相手から讃えられる
G20に出席した石破茂総理の外交マナーに賛否が集まっています。座ったままの握手や集合写真への欠席などが物議をかもしているのです。 【写真】天皇家に仕えた「女官」、そのきらびやかな姿 実際にそれが「マナー違反」かどうかは専門家の判断を待つとして、こうした賛否にも見られるとおり、外交を担う人々の「振る舞い」や、それに付随してみえてくる「人柄」は、国際関係を調整していくうえできわめて重要な要素となると考えられます。 じつは、かつて日本には、外交交渉に高い能力を発揮した、きわめて人柄のすぐれた外交官がいたと言われます。 それは、川路聖謨という幕末に活躍した人物。ロシアやアメリカとの難しい交渉を最前線で担いました。その胆力はすさまじく、交渉相手であるロシア側からも讃えられたといいます。 そんな川路の活躍を描いた小説が『落日の宴 勘定奉行川路聖謨』です。 著者は、作家の吉村昭。史実を調べられるかぎり調べて執筆するスタイルで知られています。 さて、川路は1853年、長崎でロシアの中将・プチャーチンと交渉をしたことで知られています。プチャーチンは、日本との貿易や国境の確定を求めて長崎を訪れていたのです。 同年10月14日、川路は長崎の「西役所」という場所でプチャーチンらと初めて会見をしますが、その後、川路らはロシアの艦船パルラダ号を訪問するよう招きを受けます。 しかし、かりにロシア側が強硬な手段に出た場合、パルラダ号は、川路を船に乗せたまま出航してしまうおそれもあります。福岡藩主・黒田斉溥が、ロシアは帆を干しており、出航の準備をしている可能性があるとしてそのような懸念を述べ、川治を諌めました。 ところが、川路はあくまでパルラダ号におもむくというのです。御用を拝命したときから国家のために身命を賭する覚悟でいる、と――。ここまでが、川路の日記などから明らかになっている史実ですが、吉村は『落日の宴』において、この部分を以下のように叙述しています。 〈黒田のもたらした情報に、随員の中には、川路らが艦におもむいてプチャーチンの要求を拒否した場合、ロシア艦は急に帆をひらいて出港し、川路らを本国に連れ去ることも予想される、と言う者もいた。 黒田は、それならば、死を覚悟の武芸に長じた家臣十九人を川路らの従者としてしたがわせ、さらに火薬を仕込んだ船一艘を供の船にくわえ、もしもロシア側が川路らを拉致する動きをみせたおりには、その船に火をつけてロシア艦に突入させ、家臣を切りこませる、と言った。 黒田は、 「このことについては、警備の者たちと十分に想をねり、実施の仕方を御説明に参上させます」 と言って、長照寺を去った。〉 〈川路らは、黒田の好意に感謝しながらも、そのようなことをしてはロシアという大国を敵にまわすことになり、日本にとって好ましくないということで意見が一致した。 川路は、 「このお役目を仰せつかった時から、私は死を覚悟し、国家のために身をささげたいとかたく心にきめております。十七日に露艦におもむき、もしも訃報の動きに出る気配がみられた折には、荒尾殿は御目付として、事の次第を御老中様におつたえするため露艦からいちはやく去るべきである。また、筒井殿は格別の御高齢でもあり、荒尾殿と行を共になさっていただきたい。私一人露艦にのこり、ロシアにおもむきましたなら、かの国の帝王に談判し、わが国のためにつくそうと存ずる」 と、きびしい表情で言った〉 幕末の外交官の、強烈な覚悟と自負がうかがえる一節です。 さらに【つづき】「幕末日本には、海外から讃えられる「凄腕の外交官」がいた…その男の「ユーモア」に舌を巻く」の記事では、川路の交渉中のユーモアについてくわしく紹介しています。
古豆(ライター)