《ブラジル》妻や友人との出会いに恵まれ=USP教授になった戦後移民の自分史 (下)
まさか本当に女性一人でブラジルまで来るとは
ブラジルに帰って、暫く経った頃、その女性から一通の手紙が来た。開けて見ると、しかじかの日に空路サンパウロに着くので、よろしく頼むとあるではないか。将に晴天の霹靂、寝耳に水とはこのこと、気が遠くなるほど驚いた。 当時は、未だにハイテクの時代からは程遠く、通信はすべて航空郵便が主であったので、日本からの手紙のやり取りには少なくとも1カ月はかかったが、何通かの手紙を交換した後、やがてその日がやって来た。一人で出迎えるのも気遅れがして、友人夫婦に頼んで一緒にコンゴニアス空港に行って貰った。 やがて彼女が現れホットしたが、今更にその実行力には驚かされた。友人とも相談の挙句、先ずブラジルの空気に馴染んでもらう為に、当時のサンパウロの赤間学園で暫くアルバイトをさせて貰うことにしが、これで一応働き住む場所は確保でき、こちらも安心した。 それからの、ピラシカーバでの私の生活は全く変わった。なにしろ、この広いブラジルでたった一人の知己である私を頼って、日本からはるばるやってきた女性がサンパウロに居る訳である。もうその頃には私もこの女性を、誰知る人の居ないブラジルで、日本に帰るまでは絶対に一人にはしないと心に決めて居た。 そこで、ピラシカーバにある、門限が夜10時の厳しい修道院女子宿舎にお世話になることにして、彼女をピラシカーバに呼び寄せた。それからは、大学での催し事とか、友人達の集まりとかには、私は彼女を一応ガールフレンドとして同伴することになり、今迄の自由気儘の独身生活とは天と地の相違ある生活が始まった。
いつのまにかガールフレンドに
この期間には、週末が待ちきれない程で、二人でピラシカーバ近辺のあちこちを気軽に旅行したし、思い出しても全く楽しい時間を共にした。一般外国人観光旅行者の滞在許可期限の6カ月が迫った頃、その頃には私達は婚約することに決めて居て、友人の家で二人の婚約パーテーを開くことにした。集まりは盛大なものであって、多くの友人、知人達から抱き合って祝福された事は忘れることが出来ない。 こうして、短いながら婚約時代が始まり、間もなく彼女は晴れ晴れと日本に帰国した。後は結婚ということになり、時間はかかっても多くの手紙をやり取りして、少しづつ結婚の話は具体化していった。台湾の台北で、私の研究分野で集まりが有ったのが1966年であったが、1967年7月にはその続きを、今度はフィリッピンのマニラで開くことになり、私は其れにも招かれた。 そうなれば、再び日本に立ち寄らねばならず、結婚を目前にした我々二人には日本で結婚式を挙げるという、又とない絶好のチャンスであった。結婚までに残された時間は矢のように過ぎ去り、地球の表と裏で、その旅行に合わせての結婚の打ち合わせなど準備に大わらわであった。今度は私事とは言え結婚という人生の大きな出来事とあって、大学からも1カ月の休暇を貰い、堂々と大手を振っての訪日旅行であった。 当時のESALQの遺伝学科には、ブラジルでも有数の研究用のラン園があって、そこで立派な珍しい高級ランの花束を作り、羽田に着いた時に彼女に手渡した記憶がある。当時は航空機での切り花の観葉植物などの携行は問題にされて居なかった。数日して私はマニラに渡って、研究集会に出席、やがて羽田に戻ることになったが、やがて一生に一度の結婚、身が引き締まる思いであった。