《ブラジル》妻や友人との出会いに恵まれ=USP教授になった戦後移民の自分史 (下)
イネの倒伏抵抗多収性突然品種「Ando-san」
一方の私は、家内の内助の功もあって、研究分野では着々と成果を上げることが出来、2004年には、イネの倒伏抵抗多収性突然品種が、サンタカタリーナ州農事試験場との共同研究で作られて、名誉なことに「Ando-san」と名付けられ、一般農家にも出回るようになった。特に隣国のボリビアでは広く栽培されたとのことである。 これらがもとで、ブラジルのイネ学会から表彰され、又2005年には、日本のコシヒカリ国際イネ賞も受賞した。一方、大学の方でも、定年までの40数年間に、私の研究室からは50名あまりのマスター、ドクターが育ち、現在はそれぞれがブラジル各地の大学、研究所などに散らばって、新しい育種方法の普及にも一役買って居ると信じている。 こうして私が種を蒔かせて貰った原子力放射線による植物の突然変異育種法は各地で芽を吹き始めて、現在はブラジルの多数の有用作物が少しづつ改良されて居るのを見ると、又ESALQ内の一隅には私の名が付けられた小さな記念庭園も設けられ、研究室にも私の名が付された。 これらの事実を見ると、やや大袈裟かも知れないが、私のブラジルでの研究は認められ、と同時に、ブラジルへ渡る時には想像さへして居なかった、地味な大学教師としての私の使命は達成されたと思わずには居られない。地味な大学教師として、それを名誉に、又誇りに思う次第である。 私も今年は92歳となり、いつお迎えが来てもおかしくない年となったが、亡き後は遺骨を二つに分けて、一つは当地のお墓に、一つは東京にある両親、兄弟の眠るお墓に分骨して貰うつもりである。あの世で母に会った時には、60年前に出した手紙は未だに着いて居ないのか、或いは着いたのに母がそれを握りつぶしたのかを、第一に訊いてみるつもりである。 しかしよくよく考えると、着かなくても着いても同じ結果になっていたのではないか、つまりどうでも良くて、なるようになったと考えるのが自然であろうか。(終わり)