超厳しいが「エモい」文章読本...3行で撃たれても、書きたくなるひとが続出している理由
<ではなぜ文章を書くのか?>
<思想が深まる:私たちはなぜ書くのか?> たとえば、なぜ私たちは文章を書こうとするのだろう? 『三行で撃つ』では1冊を通して、その問いが貫かれるが、解をひとつだけ紹介しよう。 文章を書くとは、表現者になることだ。表現者とは、畢竟、おもしろい人のことだ。おもしろいことを書く人がライターだ。【第22発 文章、とは(277ページ)】 著者は徒然草の「雪のおもしろう降りたりし朝(あした)」という一節を引き、〈目の前が開け、周囲が明るくなることを古来、日本人は「おもしろい」と表現してきた〉と解説する。そして、言う。 鎌倉時代の粗末な庵では、早朝の寒気など、震え上がるだけのものだったに違いない。雪の朝なんてだれも「おもしろい」と思っていやしない。吉田兼好が〈発見〉した、おもしろさなのだ。 おもしろさを見つけられる人は強い。それは、世界がおもしろくないからだ。 だから、人類は発見する必要があった。歌や、踊りや、ものがたりが、〈表現〉が、この世に絶えたことは、人類創世以来、一度もない。【第22発 文章、とは(280ページ)】 <書くことで、自分に〈なる〉> 誰もが生きていると、つらいことや理不尽を繰り返し経験する。しかし、それを言語化するとき、ひとは一瞬つらさを忘れることができる。 言葉で像を結ぼうとするその頭で、もはや「嘆く」ことはできない。「悲しい」という言葉では表せない悲しさを、なにか別の言葉に結晶させようとしているそのときに、人は、同時に悲しめない。悲しさを、いったんわきに置かなければ、言葉は現前しない。【第24発 書く、とは(297ページ)】 『三行で撃つ』を読めば、ひとは「書くこと」で、自分を救うことができると分かってくる。 世界は、よくも悪くもなりはしない。それでいい。ただ、世界の、人間の、真実を見つめることはできる。(略) 自分の書いている文章が、当の自分を追い越す。文章が、自分の思想、感情、判断を超えていく。またそうでなければ、文章など書く必要がどこにあろう。【第23発 言葉、とは(290ページ)】 過去の自分を乗り越える。読み終える頃には、自分も何か書いてみたくなっているし、書くことの力に希望を見出せるはずだ。書きたくなる。自分に〈なる〉ために。 ●近藤康太郎(こんどう・こうたろう) 作家/評論家/百姓/猟師。1963年、東京・渋谷生まれ。1987年、朝日新聞社入社。川崎支局、学芸部、AERA編集部、ニューヨーク支局を経て、九州へ。新聞紙面では、コラム「多事奏論」、地方での米作りや狩猟体験を通じて資本主義や現代社会までを考察する連載「アロハで猟師してみました」を担当する。 著書に『ワーク・イズ・ライフ 宇宙一チャラい仕事論』、『三行で撃つ〈善く、生きる〉ための文章塾』、『百冊で耕す〈自由に、なる〉ための読書術』(CCCメディアハウス)、『アロハで田植え、はじめました』、『アロハで猟師、はじめました』(河出書房新社)、『朝日新聞記者が書けなかったアメリカの大汚点』、『朝日新聞記者が書いたアメリカ人「アホ・マヌケ」論』、『アメリカが知らないアメリカ 世界帝国を動かす深奥部の力』(講談社)、『リアルロック 日本語ROCK小事典』(三一書房)、『成長のない社会で、わたしたちはいかに生きていくべきなのか』(水野和夫氏との共著、徳間書店)他がある。
『三行で撃つ 〈善く、生きる〉ための文章塾』 近藤康太郎[著] CCCメディアハウス[刊]
ニューズウィーク日本版ウェブ編集部