『ガールズ&パンツァー』で話題となったクリスティー式はアメリカ軍の英雄・パットン将軍も大絶賛!! しかし制式採用の前に世界恐慌が立ち塞がる!
米陸軍切っての戦車通・ジョージ・S・パットン少佐がT1を視察
そんな1932年4月のある日のこと。バージニア州フォート・マイヤー駐屯地で開催されたT1のデモンストレーションにジョージ・スミス・パットン.Jr騎兵少佐(当時)が視察に訪れた。ご存知の通り、のちの第二次世界大戦の欧州戦線で米機甲部隊を率いて連合軍勝利に貢献する将軍となる人物である。 ジョージ・スミス・パットン.Jr(1885年11月11日生~1945年12月21日没) アメリカ建国以来の軍人家系に生まれる。陸軍士官学校在籍中にストックホルムオリンピックに近代五種の選手として参加。1916年のパンチョ・ビリャ懲罰遠征ではジョン・パーシングの副官として参戦し、ビリャ個人の護衛隊指揮官フリオ・カルデナス将軍殺害の軍功を挙げ、第一次世界大戦では欧州派遣軍の一員として戦車隊の指揮を執り、ここでも活躍を見せる。戦間期は陸軍省で戦車の戦略・戦術・運用研究を行ういっぽうで、旺盛な戦意を持て余して趣味に走るいっぽうで、飲酒や不倫などし私生活は乱れた。しかし、再び戦争の機運が高まると1934年に中佐、4年後に大佐に進級する頃には本来の自分を取り戻して行く。1939年にドイツが電撃戦でポーランドを降すと、機甲師団の創設が陸軍にとって喫緊の課題となり、その能力が認められて准将を経て少将に昇進。第2機甲師団の旅団長に就任する。第二次世界大戦にアメリカが介入すると、中将になったパットンは北アフリカの第2軍団の司令官となる。ドイツ・アフリカ軍団に敗北した同軍団を立て直し、1943年2月の「カセリーヌ峠の戦い」に勝利する。その後、パットンはシチリア島攻略作戦に参加し、島の中心年であるパレルモを解放し、ライバルのバーナード・モントゴメリーを出し抜いて英軍が攻略を担当するメッシナも陥とす。だが、シェルショック(PTSDの一種)を発症した兵士を殴打したことが世論の批判を集めて後方へ左遷されてしまう。1944年6月に連合軍がノルマンディー上陸作戦に成功すると、連合軍最高司令官のアイゼンハワーの計らいで前線指揮官に復帰。米第3軍を指揮してコブラ作戦を実行し、ファレーズ方面のドイツ軍を一掃してフランス奥深くに侵攻。その後はロレーヌ方面で戦う。同年12月に独白国境のアルデンヌの森でドイツ軍が最後の反抗作戦(バルジの戦い)に出ると、直ちに救援作戦を実施し、孤立していた第101空挺師団を救い出す。その後、ドイツ国内の西ボヘミアへ進出したところで終戦を迎える。戦後はバイエルンの軍政指導を担当するが、インフラ維持のために非ナチ化政策を徹底しなかったことを批判されて失脚。閑職に回されるが、その直後の1945年12月21日に自動車事故により他界する。 第一次世界大戦で戦車隊を指揮した経験から戦車の戦術的・戦略的な重要性を認識したパットンは、大戦後に機甲戦力整備の重要性を陸軍内で説いて回った。陸軍内で彼の名は「戦車の第一人者」として知らぬ者はいないほどだったが、同時に上層部からは「軍の秩序を乱すやっかい者」として存在を煙たがられてもいた。前世紀から続く歩兵や騎兵、砲兵を主戦力とする戦略思想が未だに信奉されていた当時の米陸軍では、所詮戦車は歩兵支援のための補助兵器に過ぎないとの認識が一般的であり、彼の主張を理解できる人間は少なかったことが多くの賛同者を得られなかった理由とされている。 それに加えて、結果さえ出せば上官の非難や叱責も気に留めないというパットンの傲慢な性格、裕福な実家を背景に営内で貴族のような贅沢な生活を送ったことが上官や同僚の嫉妬の対象になっていたこと、さらには平和な時代に持て余した旺盛な戦意の吐口とするように、酒に溺れたり、家族に癇癪を起こしたり、娘の親友だったジーン・ゴードンと不倫関係になったりと素行の悪さも影響を及ぼしていたようだ。 ジーン・ゴードン(1915年2月4日生~1946年1月8日没) 裕福な資産家の娘として生まれたジーン・ゴードンは、パットンの次女ルース・エレンの親友であり、パットンの愛人であった。パットンとの出会いは1930年代に休暇でルースのもとを訪れたときに、ハワイ師団勤務の父・パットンを紹介されたことに始まる。この時期のパットンは軍務と私生活に不満を抱え精神的に衰弱していたことあり、満ち足りない生活から救いを求めるように若く美しいジーンに惹かれたようだ。ジーンもパットンをひと目で好意を抱き、ふたりが男女の関係になるのにそれほど時間は掛からなかったという。その後もふたりの関係は切れることなく続き、第二次世界大戦中にジーンはパットンの少しでも近くにいたいと、赤十字の看護婦を志願して欧州に赴任。兵士殴打事件でノルマンディー上陸作戦の陽動部隊指揮官という閑職に追いやられたパットンと、赴任先であるイギリスで逢瀬を重ねたとも伝えられている。終戦後、パットンが自動車事故で他界すると、アメリカ本土に帰国していたジーンは悲嘆に暮れ、パットンの死から2週間後の1946年1月8日に自殺した。彼女の遺体は自室でパットンの写真を胸に抱いた状態で発見されている。なお、パットンとジーンの不適切な関係は妻であるベアトリスも把握しており、その事実が彼女を大いに苦しめた。一時は家庭不破の原因となり、パットン夫妻は離婚寸前にまでなった。 戦間期のパットンは、その指揮官としての資質と作戦能力の高さから1923年に指揮参謀大学に入学して参謀教育、1931年に将来の将官候補として陸軍大学で教育を受けてはいたものの、彼に与えられた職務は陸軍省に出仕して戦略・戦術・戦車の運用研究を行ったほかは、災害救助部隊の指揮、2回のハワイ師団勤務(2度目は師団参謀として赴任)と、中央での出世コースから外れたものだった。事実、彼の出世は能力に比して遅く、1920年に少佐の地位を拝命してから中佐に進級するまで14年も掛かっている。
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