2025年大阪万博はどうあるべきか──「文明への畏れ」から出発を
2025年に、万国博覧会(万博)が再び大阪で開かれることが決まりました。「東京が2度目の五輪なら、大阪は2度目の万博を」と進めてきた誘致活動が実を結んだことになりますが、一方で情報化が進む中「万博は役割を終えている」との意見も少なくありません。 2025年「大阪万博」決定 関係者ら「ヤッター」と歓喜の叫び 建築家で、文化論に関する多数の著書で知られる名古屋工業大学名誉教授・若山滋氏は、1970年の大阪万博をはじめ数々の博覧会に携わってきた経験があります。その若山氏は今回の大阪万博開催決定をどのように受け止めているのでしょうか。独自の「文化力学」的な視点から論じます。
日本文化の「空気リーダー」
2025年の万国博覧会が大阪で開催されることに決まり、関係者が大喜びする光景が見られた。 2020年の東京オリンピック誘致が決まったときと同じ、笑顔、笑顔、笑顔。感きわまって泣く顔もある。しかしこれは本当に喜ぶべきことなのだろうか。国民にとって長期的な幸福につながることなのだろうか。 1970年の大阪万博以来、数々の博覧会に関わってきた身として、もう一度考え直してみたい。万博とは何なのか、国民にどのような影響を及ぼすのか。2025年なら、どのようなものであるべきか。 なぜか、こういったイベントは知事とか市長とか自治体の長が突然いい出して、その下にいる役人も、また国会議員や経済界やマスコミも、初めは疑問に思いながらも、何となく賛同し、次第に推進側になっていくものなのだ。 日本にはそういう「空気」が漂っている。 山本七平が『「空気」の研究』に書いた、太平洋戦争のリーダーたちが、戦後こぞって「当時はとても反対できる空気ではなかった」と発言した、それに似た「空気」である。万博の推進者層は、確固たる個人の考えをもって人々を引っ張っていく本当のリーダーというより、何となく形成された空気の中で人々を先導する、いわば日本文化に特徴的な「空気リーダー」とでも呼ぶべき存在である。 そして多額の費用が投じられる。公的機関も、民間企業も、外国も、入場料を払う国民も。そして何も残らない。期間中に賑わいを見せたパビリオンはすべて撤去されるのが原則で、通常の公共投資や設備投資とは違って、資本が拡大再生産にまわらないのだ。大いに無駄である。 しかし資金が動き、仕事も増え、消費も増え、社会全体が盛り上がるので、自治体の長も、役人も、国会議員も、マスコミも、損はないのだ。「空気リーダー」たちにとっては、自分の任期のうちに盛り上がることは、実績になってハッピーであり、ツケは次代の担当者にまわされる。「あとは野となれ山となれ」。公共にしろ民間にしろ、そのツケを支払うのはもちろん国民(次世代も含め)である。