2025年大阪万博はどうあるべきか──「文明への畏れ」から出発を
万博とは何だろうか
僕は、大学の卒業から定年まで万博とともに生きてきた。ここで体験談的に、万博の文化的な変遷を振り返ってみよう。 1970年の大阪万博は大学院時代、清家清教授が設計したパビリオンの模型づくりを手伝った縁で、オープン前から会場に出入りすることができた。多くのパビリオンで、空気膜構造、立体トラス、プレハブ式組立構造、カプセルなど、新しい建築技術の試みがあったので、その影響もあって、建築の工業化を志した。いわば建築家としての方向性を決める出発点となったのだ。 万国博覧会というものは、1851年のロンドン万博が第一回で、クリスタルパレス(水晶宮)と呼ばれる鉄とガラスの巨大パビリオンが登場し、近代建築の幕開けを告げた。1889年のパリ万博ではエッフェル塔とともに鉄骨構造の白眉ともいうべき機械館が登場した。つまり建築技術の進歩(工業化)と軌を一にしていたのだ。 この時期の万博には、ヨーロッパの近代文明を世界に波及させるという意義があった。近代文明とは何か、近代技術とは何か、近代社会とは何か、目に物を見せようとしたのだ。人々は科学力、技術力、工業力に酔いしれた。万博は工業資本主義の起爆剤でもあった。 1970年の大阪万博は、それがアジアの一角で行われたことに意義があった。会場を訪れた子供たちはスケッチブックを持ち歩き、外国人特に欧米人と見れば誰彼かまわずサインをしてもらった。日本という国が欧米流近代文明に憧れていたことが見て取れる。 しかし実は当時、というより会期前、日本の知識人と大学生のほとんどが「万博反対」であったのだ。それは「安保反対」と同じ路線の上にあり、社会主義=マルクス主義的な視点からは、万博に参加することは資本主義の走狗となることであった。しかしちょうど赤軍派の武力革命路線とも重なり、世界的な社会主義運動の退潮とも重なり、この万博以後、反体制運動というものは潮が引くように日本社会から消えたのである。 1964年の東京オリンピックは、戦後復興に終止符を打ち、高度経済成長が軌道に乗ることを意味し、1970年の大阪万博は、それに対する社会的軋轢が一段落し、オイルショックからバブル経済へと進むことを意味していた。経済的にはまだ発展期にあったが、思想的にも、環境と資源の面からも、文明の問題点が露呈しつつあり、一種の転換期ではあったのだ。