2025年大阪万博はどうあるべきか──「文明への畏れ」から出発を
発展期からバブル期へ、下降期から衰退期へ
1985年のつくば万博(国際科学技術博覧会)は、設計事務所時代の最後の仕事として、政府出展歴史館の設計担当者となった。会期後に解体されることを考え、アルミ製のコンクリート型枠をそのまま外壁に使うことにした。 その10年前に行われた沖縄海洋博に比べ、場所の割に人が集まったといえるが、「科学万博」というわりには、1970年の大阪万博のような科学技術のインパクトは感じられず、外国人も目立たなかった。 名古屋の大学に赴任してから、世界デザイン会議が招致されたことにより市政百周年を記念して、1989年世界デザイン博覧会が行われた。市の若手と議論を重ねてテーマの方向性を模索し、重要なパビリオンのプロデューサー兼設計者となった。会期中は東海地方のテレビ局で各パビリオンの展示内容を紹介する連続番組を担当した。少しあとの三重県世界祝祭博覧会では、有名な真珠メーカーのパビリオンを設計した。そういった関係で、岐阜の未来博や大阪の花博にも足を運んだ。 日本は、自治体が軒並み百周年を迎え、博覧会だらけだったのだ。一種のバブルであろう。民間のバブルは主として不動産投資であり、行政のバブルは博覧会と箱物行政だったといえる。 1970年の大阪万博が新しい建築技術を競ったのに対して、この時代の博覧会はほとんどのパビリオンが「映像」を見せ、建築はただの箱になっていた。建築の時代から映像の時代へ、人々を驚かせるスペクタクルの変化である。 2005年の愛知万博(愛・地球博)では、誘致のための最初の企画委員から最後の運営委員まで、長期にわたって、愛知県と通産省(2001年より経産省)と博覧会事務局とさまざまなお付き合いをした。中日新聞の紙面で3年間ほど連続座談会も担当した。 招致が決まったときは、テレビスタジオで発表を待ち受けてコメントする役割だったが、ホテルの会場では担当官と財界人が集まって、今回の大阪と同じように狂喜する姿が見られた。愛知県と名古屋市はその前にオリンピック招致に失敗しており、そのトラウマを吹き飛ばす意味もあった。逆に、環境問題で反対が多く、途中で会場を変更するというスッタモンダもあった。 内容としては、1970年大阪万博の普遍的な科学技術とは逆に、民族固有の文化的な展示が多く、風土的な食べ物が売られたのも好評だった。会場を訪れた外国人の多くが非欧米人で、名古屋の街をアジア、アフリカ、ラテンアメリカの人々が闊歩し、草の根交流の光景が見られた。地球というテーマがそれなりの意味をもったのだ。 こう振り返ってみると、博覧会人生だった。建築家で、国立大学の教授で、文化論を書き、中部地方のマスコミによく出るという立場の必然だったのだろう。要するに、祭りで踊った人間が、今、その祭りを批判しているのだ。 整理しよう。1970年の大阪万博は、わが国における近代技術文明の発展期であり、それなりの教育普及効果があった。1985年のつくば万博以後の全国各地の博覧会は、日本のものづくり技術のピークでありバブル期であり、大きな祭りではあったが、教育的効果はあまり感じられなかった。2005年の愛・地球博は、バブルがはじけた下降期にあり、西欧的普遍性から地球的風土性への転換が現れていた。 そして2025年の大阪万博は、残念ながら衰退期(少なくとも人口の上では)の万博である。 1970年のような近代文明の波及ではありえず、バブル経済再来を夢見るようなものでもありえない。日本にとっても大阪にとっても背水の陣、起死回生。まったく新しい頭で、まったく新しい文明に挑戦するような気持ちで取り組むべきだろう。