2025年大阪万博はどうあるべきか──「文明への畏れ」から出発を
人気者政治家の宿命
東京オリンピックは石原慎太郎元都知事、大阪万博は橋下徹前市長がいい出した。 どちらもハッキリとモノをいう政治家で、その点では好感がもてる。元都知事は革新系の都政で積もった財政赤字を解消し環境問題にも力を入れた。前市長は大阪府と大阪市の対立を解消する構想に力を入れた。どちらもそれなりの実績だと思われるが、それは組織にメスを入れることであり、働く人の血を見ることである。その過程でこの2人には目に見えぬストレスがたまっていたのではないか。 もともとが人気者である。その人気によって地位についたので、地方行政の実態を知り尽くしているわけでもなく、執拗な抵抗や批判に対する免疫も弱い。そこでその鬱積を吹き飛ばしたいという欲望が湧く。 オリンピックや万博という祭りなら、周囲の抵抗が少なく表面的には盛り上がり派手なパフォーマンスも可能だ。こういったイベントを打とうとするのは「人気者政治家の宿命」なのかもしれない。現代民主主義の通弊であろうか。
経済効果より内容が問題だ
やるからには成功させなくてはならないと、経済効果はいくらだと、テレビで識者がコメントする。 しかし成功とは何だろうか。「空気リーダー」たちにとっては人が入ることである。しかし官費の分だけが入場料で賄えたことで黒字になったと喜ぶのもどうだろうか。企業にとっても、外国にとっても、入場者にとっても、支出に見合う価値がなければならないのだ。つまりそこに生まれる知的情報的文化的価値が問題なのだが、そうコメントする人は少ない。 「経済効果」という言葉は要注意である。「effect」は「効果」とも訳せるが「影響」とも訳せる。それは経済的な動きの量であり、無駄も経済効果なのだ。それをいかにもいいことであるかのように喧伝する政治家やコメンテイターが多いのは不思議である。 本当は、入場者数や経済効果より、どのような内容の万博にするのかが問題なのだ。