伝統ある桑・茶・果樹園の地図記号。果樹園記号にパイナップルやスイカ、イチゴが含まれない理由とは?
◆ブドウ畑 ヨーロッパで興味深いのは、多くの国の地形図で果樹園とは別にブドウ畑が定められていることだ。前述のように日本ではブドウ畑は果樹園に含まれるが、「明治33年図式」までは「葡萄畑」の記号があった。 形は地面に差した支柱にブドウの蔓が巻きついた図案で、これはフランスやイタリア、スペインなどラテン系の国の地形図に多く見られるデザインなので、当時の日本もそれを借用したのだろう。 私がこの記号を日本の地図で最初に見たのは、東京の渋谷付近が描かれた2万分1迅速測図「内藤新宿」(明治24年修正)であった。前述の松濤の茶畑から渋谷川をはさんで東側の台地上であるが、現在の青山学院の位置に記された前身の「英和学校」の庭に描かれた5つの「葡萄畑」の記号である。 日本に最初に葡萄酒をもたらしたのは宣教師で、織田信長あたりが最初に飲んだ話も聞くが、キリスト教の布教活動とワイン醸造は切り離せない。この学校でもあるいは醸造所が併設されていたのだろうか。 明治に入ってからは山梨県の勝沼(かつぬま)(現甲州市)などで生食(せいしょく)用に加えてワイン用のブドウ栽培が広がるが、全国的に見れば少なく、わざわざ特定の記号を与えるほどではないと判断されたのか、「明治42年図式」で早々と果樹園に統合されてしまった。 勝沼付近は現在よりブドウの栽培面積ははるかに少なかったとはいえ、「葡萄畑」の記号が描かれた版(5万分1「甲府市」)で数えたところ、29個もの記号が付近に点在している。 国内の図で表示されたこの記号の数としてはこれが最高だったのではないだろうか。
◆廃止された記号 ついでながら、桑畑と同じタイミングでなくなった記号が○印で示す「その他の樹木畑」である。桑畑に比べて知名度の低い記号ではあったが、大事な役割を担っていた。具体的にどんな場所に適用されるかといえば、「平成14年2万5千分1地形図図式」によれば、「桐、はぜ、こうぞ、庭木等を栽培している土地及び苗木畑」であった。この中で最も多かったのは庭木や苗木の畑だろうか。 たとえば庭木の一大産地である福岡県久留米市の耳納(みのう)山地の北麓にはこの記号が目立った。このあたりを久大(きゅうだい)本線の列車で通ると、さまざまな種類の枝振りの良い植木群が印象的だが、ここに○印が並んでいたものである。今では残念ながら畑の記号に統合されてしまった。 もうひとつは戦前の「大正6年図式」まで存在した「三椏(みつまた)畑」である。和紙の原料となるミツマタで、記号も三つ叉のマキビシのような記号だった。等高線がどこまでも密集した土佐の山奥の戦前の地形図をよく見れば発見できる。 英語ではミツマタをpaperbush とも呼ぶそうで、これを原料とした高知県産の和紙は戦後の一時期まで、極薄で丈夫なタイプライター用紙として米国などへ多く輸出されて評判が良かったというが、世の中が変わって記号もひっそり廃止された。 一国の農業や輸出入品目と地図記号には、実は深い関係がある。 ※本稿は、『地図記号のひみつ』(中央公論新社)の一部を再編集したものです。
今尾恵介